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●惣 そう

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 中世において,地域に密着した形で結成された組織である。段階的には二つにわかれる。第一段階は鎌倉後期以降,村落と結びついて形成されてくる惣結合であり,ふつう惣村と呼んでいる。この段階には弱小農民が広汎に自立することにより,彼らが数の上では惣村の中核となりながら,有力農民(名主に系譜をもち,加地子集積を行う)に指導されていた。若狭国太良荘では,鎌倉前期から百姓などの結合はみられ,地頭から「百姓等の習い一味なり」といわれるほどであったが,その百姓結合が惣として出現するようになるのは鎌倉後期以降である。そこでは,まず小百姓の活動性が高まり(遠敷市での交易),それとともに幕府権力の倒壊,地方政治状勢の激変,南北両朝勢力の抗争という状況下に入り,隣りの恒枝保との相論も始まるという契機もあり,太良荘に居住するすべての百姓(惣)の団結が要請されたのである。それとともに,守護勢力(外部勢力)に対抗するためには,国人(武士)の一揆がおこり,惣村の指導層もそれに加わっていく。つまり,有力農民は荘園をこえて横にも連合していくのである。この連合の範囲は当時の生活空間の大きさに規定されたものであり(通婚,逃亡請入など),有力農民は個別荘園内に経済基盤(名田など)をもつだけでなく,隣接する荘郷の加地子名主職(中分取分の取得権)を集積している。このような農民結合の横の広がりは,個別荘園における年貢減免運動をも,相互に連携しながら展開することを可能にした。この段階の惣結合は,小百姓層の広汎な参加があり,それが惣の力となっているが,有力農民と小百姓とのあいだには経済的な矛盾がある。両者のあいだに地主―小作関係(借耕関係)がみられるのである。だが,小百姓も自己の名田を所持しており,これが百姓全体としての結合の基盤となっている。

 第二段階は,室町時代以降顕著にみられるもので,前段階の有力農民が小百姓と対立するにいたり,地侍化して横の連合を強化していくものである。1485年(文明17)の山城国一揆でも「国人」(地侍)と「土民」は別々に結集している。この地侍層の横の連合は発展しながら,国一揆,惣国一揆,郡中惣などの形で展開していくが,これも地方政治状勢と結びついている。山城国一揆は,応仁文明の乱直後の,幕府権力の分裂という状況下において,南山城四郡(相楽・綴喜・宇治・久世)の地侍層が守護畠山氏勢を追放し自治の体制を築いた。彼らは「国中の掟法」(一揆勢力範囲内の法)を制定し,月行事が裁判を行った。幕府権力の弱体化というなかでの地方権力創出の動きである。近江国甲賀郡中惣は一層発展した結果である。ここでは,地侍の「家」-同名中-郡中惣という三重の権力行使関係がみられる。地侍の「家」の長は家内の者(家族,被官)に対する処分権・裁判権をもっている。この「家」の長で構成される同名中は,特定の家(たとえば山中氏)を中心に形成された擬制的一族組織であるが,同名中構成員個々の権利を保障するためのものである。同名中の「惣」が結成されており,内部においては対等の関係にある。しかも同名中の掟をもつ(大原同名中与掟)。掟は対外関係の緊張のなかで,構成員を対象にして禁止事項を取り決めたものであるが,領域内の百姓,商人への統制も含む。掟の改正は多数決で行われ,執行は年行事による。郡中惣は同名中の連合であり(伴同名中,山中同名中,美濃部同名中が山中郡中惣を結成),やはり掟をつくっている(1566)。郡中惣として処罰権を掌握していて,三同名中に適用されるもので,処罰対象としては夜討,強盗,山賊,盗人などである。処罰方法は追放をも含む。この郡中惣の権力は,「家」-同名中-郡中惣と三重に広がる在地裁判機構であるが,それぞれが独立しており,三者は補完関係にある。このような郡中惣の中核的構成者は個々の「家」(地侍)であり,その利益を集団として保障するものである。

〔参考文献〕宮島敬一「戦国期における在地法秩序の考察」『史学雑誌87―1』1978