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●宋(南朝) そう

アジア 中華人民共和国 AD420 

 420〜478 中国,彭城(江蘇省銅山県)出身の寒人劉裕が,東晋の恭帝の禅りを受けて開いた王朝。8代59年。劉裕は京口で北府軍の劉牢之の部下となり,孫恩を平らげて勇名を馳せ,また桓玄を殺し,南燕・後秦を討つなどの内外の武功によって東晋朝の実権を握り,420年宋朝をおこした。彼は東晋末の13年(義煕9)土断政策を実行して華北からの流寓者を江南の戸籍に編入し,郡県を併省して中央集権につとめた。在位3年で武帝は没し,後事を寒門の徐羨之,傅亮らに託したが彼らは少帝劉義符を廃してその弟劉義隆を立てた。これが文帝である。文帝は親政後,徐,傅を誅し,王弘,王華ら東晋以来の貴族を用いて文治政治を行ったので,30年の平和を招き,世に元嘉の治と称された。玄儒文史の四学がおこり,陶潜謝霊運顔延之らは詩文の世界に活躍したが,50年北魏の太武帝と対戦し,6州を政掠されて国力が衰えた。翌51年魏と和したが,文帝は53年太子劉邵によって暗殺され,第3子劉駿が劉邵の党子を誅して帝位についた。これが孝武帝である。孝武帝は流寓の僑民に租を課し,宗室の勢力を抑え,士族と工商,雑戸との通婚を禁ずるなど武断・集権の政治を行った。孝武帝の次の前廃帝劉子業は宗室・太臣を誅し悪虐の行いが多かったので近臣に暗殺され,叔父の湘東王リュウイク※注1※が迎えられた。この明帝即位にあたり,晋安王劉子クン※注2※が尋陽で挙兵したが,明帝は沈攸之を派遣してこれを平定し,また魏と戦い,青・イク※注3※地方を回復して国力を伸長した。このころ総明館を立て,儒玄文史陰陽の学館を置いたが,のち湘官寺の建立をはじめ,奢侈にふけり,財政の窮追を招いた。明帝ののちは,寒門の阮佃夫らの専権が著しく,叔父桂陽王休範が挙兵した。ときに武臣の蕭道成は休範を討ち,順帝劉準を擁立した。このときに没攸之,袁粲,劉秉らの各臣も義兵を挙げたが敗退し,479年,全権を握った蕭道成は,順帝の禅を受けて斉朝を開いた。

〔参考文献〕『魏晋南北朝通史』岡崎文夫,1932,弘文堂

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