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●宋 そう

アジア 中華人民共和国 AD960 北宋

 960〜1279(建隆1〜祥興2)中国史で唐・五代につづき,元に連なる王朝,また時代名でもある。靖康の変(1126,靖康1)によって首都開封を放棄し,江南に移り,杭州を首都(行在)とした。前者を北宋,後者を南宋と呼ぶ。宋は政治・軍事面では強勢ではなかったが,経済発展は比類ないもので,中国史上の画期をなした。また絵画・磁器など今なお世界の人びとの賛嘆する作品が多く生まれたのであった。

【政治−集権体制と異民族の圧力】後周禁軍(近衛軍)の将軍趙匡胤(太祖)は960年(建隆1)軍事クーデターによって後周朝を倒し,開封を都として宋王朝を開いた。以後,宋は荊南・蜀・南漢・南唐・呉越の諸国を征服・併合し,979年(大平興国4)北漢を滅ぼし,五代十国時代の分裂中国の再統一に成功した。そのため宋初期,太祖・太宗2代の最大の政治目的は統一の維持と分裂の回避に置かれ,徹底した中央集権政策と五代軍閥勢力の削減が実施された。集権体制維持の2本柱は[1]軍隊の再編,[2]官僚制の貫徹にあった。[1]軍隊の再編とは,全国藩鎮軍から最優秀兵員を選抜し,群盗・盗賊からも兵卒を募って皇帝直轄軍を編成し,藩鎮軍は廂軍として力役専門兵とした。また無頼・反社会分子を大量に禁軍に繰り込み,彼らが反王朝勢力に成長することを阻止しようとした。[2]官僚制の貫徹とは,皇帝のみを最終決定者とし,官僚行政機構によって全国の一元的支配をめざすものであり,とくに類似の官職を設けて決定権を1官職に偏在させない,いわゆる分割統治の原則の貫徹した組織となっていた。また必要な官僚は科挙制によって,全国から大量に選抜・供給され,さらに地方試験合格者の定員枠(解額制)が設けられたことにより,全国の地方地主層が科挙制を通して中央権力に参加する道が開かれた。これは社会と国家を結ぶ基本紐帯として機能し,宋朝の安定性が確保された。一方,宋をとりまく国際環境は厳しく,唐末以来の契丹族の圧力は強大であり,宋初2代は概して守勢に終始し,太宗の燕雲十六州奪回作戦も失敗に終わった。第3代の真宗のとき契丹(遼)は大軍を南下させ決戦を挑んだが,1004年(景徳1),センエン※注1※の盟によって両国は和睦した。この条約は漢族と契丹族の軍事対決関係を条約による共存関係に置きかえた点に画期性があったが,同時に宋から遼に銀10万両,絹20万匹を毎年おくることを約束しており,いわば購われた平和であった。以後このパターンは繰り返され,チベット系党項族(タングート)の西夏との戦争,遼との紛争はすべて銀絹贈与と増額によって決着がつけられた。仁宗時代は宋代最盛期とたたえられているが,矛盾の急速に進行した時代でもあった。100万人に及ぶ軍隊の維持費と1万7,000人の官員の俸禄は国庫収入をくい潰し,その上,西夏との戦争経費によって財政は破綻した。宋期の内包する予盾は財政問題において集中的に現れた。こうした状況のなかで王安石が登場し,変法を試みた。彼のめざしたものは国家と中小農民・商人の連帯による中間収奪者の排除,生産の拡大と財富の合理的運用であった。しかし国庫収入を好転させることには成功したが,宋王朝編成にかかわる根本問題の改革はできなかった。そして反対者集団との激しい政争,党争が遺産として残された。党争と政治的に無力な皇帝(徽宗)の出現は政府の統治力を弛緩させ,指導力は失われた。また逸楽のための江南民富の収奪は方臘の反乱を生み,満州より台頭してきた女真族(金)が遼を亡ぼし,開封に殺到してきたときには北宋に金軍と対抗する余力はもはやなかった。1126年(靖康1),金軍は開封を占領し,翌年徽宗・欽宗ら皇室関係者を根こそぎ北方に強制連行し,北宋朝は亡びた。1127年(建炎1)5月,唯一の皇帝直系残留者,欽宗の弟,趙構応天府で継承政権樹立の宣言を行い(南宋朝),即位した(高宗)。だが圧倒的な金軍と頻発する反乱のなかでの南宋朝確立の道は困難に満ちていた。将軍岳飛らはあくまでも金との軍事対決,失地回復,実力による両帝奪回を主張したのに対し,秦桧の構想は北宋以来の基本理念にきわめて忠実であった。すなわち南北(宋・金)の均衡共存関係の樹立をめざし,集権官僚制の回復を基本とし,拡散化した軍事力の皇帝への一元的帰属を主張し,高宗の支持を得て反対者を圧倒した。1141年(紹興11),宋・金両国は盟約を結び,当時の両国の力関係を反映して,東は淮河,西は大散関にいたる線を国境線とし,毎年銀25万両・絹25万匹を金におくり,宋は金の冊封を受け,金の従属国として確立することができた。以後両国間の戦争はあったが,いずれも挑発した側−金が1161年(大定1),宋が1205年(開禧1)敗れた。この国境線が国力均衡点であることを示しており,その意味で秦桧の展望は生きていた。また南宋の孝宗,金の世宗はそれぞれに内政に意を注ぎ,両国間の平和は保たれていた。こうした均衡状況を一気に破ったものは蒙古族の台頭であった。新興の蒙古族と連合して宿敵金を倒すべきか否かをめぐって,国論は分裂した。一方,宋政権の内包する矛盾の集中的表現形態である財政悪化は急速に進行した。とくに1234年(端平1),金が蒙古に滅ぼされ,宋・蒙古直接交戦の段階になると戦費負担は膨大なものとなった。理宗時代の1年の国庫収入は銭1億2,000万貫,支出は2億5,000万貫であったと伝えられている。南宗末の宰相賈似道は軍糧調達のため江南で土地買い上げを目的とする公田法を試みたが,失敗し,悪性インフレは止まるところがなく,宋政権の統治力は失われた。1276年(徳祐2),伯顔に率いられた元軍が杭州に進撃したときには激しい抵抗はなかった。恭宗は降伏し,1279年(祥興2),広西・崖山の戦いを最後に宋朝は滅亡した。だが元の宋征服には四十余年もかかったことを忘れてはならない。

【社会・経済−江南発展と都市化】宋代社会構成の大要をみると,1080年(元豊3)時点で,[1]官僚特権大地主層2万戸,[2]郷村大地主層40万〜50万戸,[3]自営農100万〜300万戸,[4]自小作農750万〜950万戸,[5]客戸(おもに小作人・非担税戸)500万戸であった。また財富の基本である農業生産をフォイワーカー教授の試算によれば,1080年(元豊3)段階で[1]総人口9,000万人,農業人口はその80%,1人あたり穀物生産高550斤(275kg),[3]食糧総生産高3億8,000万石,[4]国民総収入3億8,000万両,うち農業部門は2億3,000万両,[5]政府収入5,000万両,国民総収入に占める割合13%。これは宋以後の歴代に比べて相当な高率で,宋がいつも戦時財政状態にあったことの現れであった。以上が宋代社会をみる基本的数字である。以下,社会経済の特徴的現象を数点挙げておきたい。[1]まず人口の増加と南方移動。唐代最盛期742年(天宝1)の統計では914万戸であった人口は,1080年には1,454万戸と約540万戸増加していた。さらに北方民族の圧迫と戦乱を逃れて南遷する人口も多かった。北宋の滅亡をあいだに含む1102年(崇寧1)と1162年(紹興32)の統計をみると,405万戸が華北・中原から江南・蜀に逃れており,うち55万戸は両浙に集中していた。[2]耕地の拡大と江南水利田の開発。宋代の田地統計は明瞭性を欠いているが,北宋代にはほぼ3,000余方頃(けい)と元代の歴史家は推定していた。これは唐・天宝年間の応受田1,430万頃に比べれば2倍増であった。また宋代の特色は江南・福建の海岸・河川敷・湖沼などで堰堤を築き,ウデン※注2※・囲田湖田と呼ばれる干拓田を大量に造成したことで,煕寧年間(1068〜1077)に全国で36万1,000余頃の水利田が造成されたが,10万5,000頃は両浙が占めていた。この[1]・[2]あわせて宋代大土地所有制発達の基礎となった。北方からの大量の移住者は荘園の小作人・雇傭人となった。また土地開発には相当な資本を必要とし,土地は投資の対象となり,売買が盛んに行われ,1,000年の田,800の主という諺も生まれた。[3]農業枝術の発達。土地利用空間の拡大による生産量の増大と並んで,単位面積あたりの収量も大幅に増え,農業枝術の発達がそれを支えていた。水稲の品種改良,占城(チャンパ)稲の導入,苗代作り,施肥による地力の補給など水稲栽培の基本技術,稲麦多毛作農法が完成し,零細小農民の生活安定に役立った。また各地に茶・甘蔗・果実・麻・木綿・漆など特産品生産も盛んとなった。[5]交通体係の発達。「南船北馬」ということばがあったが,この時代から水路・水運によって全国が結ばれるようになった。大小河川・湖・海・運河を利用して人や物資の往来が可能となり,交通・運輸体系の大変革を生んだ。陸游の『入蜀記』,范成大の『呉船録』は中国を東西に横断した舟旅を克明に伝えている。また北・西への拡大を抑えられたため,南・東の海上に進出を余儀なくされ,羅針盤の実用化,造船技術の発達とあいまって東シナ海,南シナ海は宋商人の大活躍の場となった。[6]商業,決済手段の発達と都市化の進行。土地所有と経営が自由となり,さらに生産物の処分が自由となり,生産が拡大したことは当然に物資の移動を盛んにし,商業は空前の発達をみることとなった。国庫収入において商税の占める割合(10〜20%),泉州・広州両貿易港収入と全国地税収入が匹敵していたこと(ともに200万貫)からもこの点は確認できる。通貨としては銅,鉄銭,銀両が用いられたが,遠隔地商業の発達は小切手,約束手形,為替手形など多様な決済手段を生み,交子会子などの紙幣をも生んだ。商人も郷村での負販(ふりうり),都市での坐賈(みせあきんど),客商(たびあきんど),ナカガイ※注3※と機能・階層分化がみられ,行(商人組合)をつくり,官憲への対応と同業者の利益確保にあたった。そして商人間に階層秩序があったように市場にも階層秩序が生まれ,村―村市―鎮市―県城と従来の行政機構とは別の,商業を中核とした集落が発達し,中国世界の都市化,非農業性集落の形成と展開の出発点となつた。

【文化−士人の世界と庶民の世界】宋代の社会的エリート層は存在としては地主であり,独立した経営者であり,さらに科挙制は個人の能力選抜試験制度であったから,総じて主体的であり個性的性格がつよかった。また天下,万世,万民のために生きるという倫理的意識(理想主義),典型,規範を尊重する意識(古典主義)を当然とし,自覚していた。こうした意識が噴出し,社会的運動となったものにまず慶暦の文体改革運動があった。科挙の中心は策論にあったが,その文体は六朝以来の四六駢儷文体であった。煩瑣で形式的で,これでは個性的意見は自由に表現できないと主張した。六朝・唐の文体の否定,すなわち古文の復活は欧陽脩の歴史記述,『五代史記』の客観的で的確な文章によって成功を収めた。ついで司馬光は北方民族の重圧に苦しむ中国を根底にすえて,漢民族通史『資治通鑑』を著し,民族の不滅と同時に唐の貴族的文体,思想を圧倒した。貴族に代わる生活者・読書人・官僚三位一体者の精神は散文に色濃く現れた。さきの両者に加えて王安石蘇軾陸游らが人生の直接の経験と論理をもりこんだ文章を著し,同傾向の詩文をつくった。他方,士人層の個性的主体的心性と古典世界(四書五経),あるいは理想人格としての聖人との直接的連続,一体化をめざした思想運動が,南宋の朱熹によって集大成された朱子学(宋学・理学)の流れであった。理は万物にさきんじて万物に内在し,万物は理に従って運動する。人間にあっては理は性であり,性は君臣・父子・夫婦・長幼・朋友の人間関係を規定する五倫として実現すると説き,宋学は仏教に代わる士人の個人的安心立命の教えであると同時に,現存する社会秩序の永遠化と絶対化をめざした。宋代は中国絵画の黄金時代と呼ばれ,唐の宗教画・人物画に代わって花鳥画・水墨山水画が盛んとなり,以後の中国画の基本様式,技法を定めた。前者は写実に徹する宮廷画院の職業画家によって,後者は心境・理想の表現をめざす文人,僧侶系画家によってそれぞれすすめられた。また都市では雑劇が生まれた。雑劇とはうた,せりふ,おどり,しぐさを包括した大衆舞台劇であった。このほか,諸宮唱と呼ばれる演唱文芸や講釈がはやった。その内容は恋愛もの,推理もの,幽霊怪奇,連続長篇歴史物語・英雄伝などであった。

〔参考文献〕『東アジア世界の変貌』世界の歴史6,1968,筑摩書房

『東アジア世界の展開 I 』世界歴史9,1970,岩波書店

『漢民族と中国社会』1983,山川出版社

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