●全面講和論 ぜんめんこうわろん
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第二次世界大戦直後の日本国内に存在した,講和後の日本の自主独立と安全を確保するために,講和条約は中ソを含む全連合国と同時に調印すべきだとする持論。アメリカは1947年(昭和22)7月,対日講和予備会議を提案したが,会議方式に関し米ソの意見がきびしく対立したため実現はできなかった。1949年9月の米英外相会談で早期対日講和準備が合意,同年11月1日アメリカ国務省は講和条約準備中と発表した。米ソ対立のままでの早期講和に対し,日本国で講和方式をめぐる論議がさかんになった。1950年6月の朝鮮戦争勃発は,アメリカを始めとする西側諸国を,早期対日講和にふみきらせる契機となった。この場合は「多数講和論」といわれる。これにたいし,全面講和を主張しつづけた社会党,共産党,労農党など3政党を中心として,全面講和運動が展開された。その全面講和論の主張や論拠はすこぶる多様であった。たとえば,社会党の主張は根本的には非武装中立主義にもとづくものであり,共産党のはソ連の提案する全面講和論を支持するものであった。