●前方後円墳 ぜんぽうこうえんふん
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円丘に方丘を付設した,わが古墳時代に特有の型式の墳墓である。【名称】前方後円墳の名は,江戸時代に宇都宮藩士の蒲生君平が,その著『山陵志』で,この種の古墳を宮車にみたてて,形が「前方後円」であると記したことに由来する。明治以降,瓢塚とか瓢形墳が学術語として用いられたこともあった。地元民によって,銚子塚・車塚・茶臼山・瓢塚・瓢箪山・二子山などと呼び慣らわされているのは,ほとんどすべて前方後円墳である。
【起源論】きわめて個性的な前方後円という墳形が,何に由来するかをめぐる説は,江戸時代以来数多く提起された。宮車模倣説(蒲生君平),主墳−培塚連接説(清野謙次),広口壺模倣説(島田貞彦),丘尾切断説(浜田耕作),前方部拝所説(喜田貞吉),前方部祭壇説(梅原末治)などがそれで,このほか森本六爾は前方部を祭壇とみなすが,そこに大陸の影響を考えた。また駒共和愛は,中国の「天円地方」の思想こそ,この墳形の起源とし,山尾幸久も三国時代の郊祀における祭壇とのかかわりを説く。近藤義郎は前方部を共同墓と首長墓とを結ぶ通路の形象化を考えた。しかし,いずれも問題が残り,目下のところ定説はないといってよい。現在までの知見では,最古の前方円墳は奈良盆地で成立した,という事実が確認されるだけである。
【型式】前方後円墳は,日本のほぼ全域において,4世紀から300〜400年にわたって築かれたことにより,そこには年代差による型式差と,微妙な地域差とが認められる。最古式の前方後円墳は,奈良県箸墓古墳や,京都府椿井大塚山古墳などで,後円丘にくらべて著しく低い前方部は,その先端部が撥形に外方に開くという特色をもつ。4世紀型ともいえる前期の前方後円墳は,奈良県桜井茶臼山古墳に典型的にみられるように,低くかつ狭長な前方部をもつところから,柄鏡形の名で呼ばれたりする。これらは山丘頂や丘陵端部に立地するのが通則である。しかし,自然地形を最大限に利用するため,古墳外形が大きいのに比べて,人工的な盛土が少ないようである。中期とされる5世紀型の前方後円墳は,大阪府仁徳陵古墳に代表されるように,平地に築かれる壮大なものが多く,前方部の高さは後円部のそれに近づくとともに,その前端部の幅も後円部径を,やや上まわるほどに開いてくる。くびれ部に設けられた「造り出し」と呼ばれる張りだし部からは,特異な埴輪や祭祀用土器などが発見される。古墳の正面観が変化したと見るむきもある。目立つ古墳に二重の周涅がめぐらされたりするのも,このころに多くみられる。後期に入ると,前方後円墳の規模の縮小が目立つとともに,再びその立地は山麓付近に戻っていく。前方部の高さは後円部のそれを上まわるものがあり,前方部端の幅もまた極度に開きをます。ただし東日本では,前方部が本来の姿を離れて,双円墳に近いものさえ出現する。こうして7世紀に入るころには,西日本では前方後円墳は姿を消し,東日本でもその中葉には方墳と入れかわっていく。前方後円墳は,その成立当初からほかの型式の古墳とのあいだに,きわだった規模の差をもつのが一般的である。すなわち,この型式の古墳はもともと大王墓ならびに王墓として成立したものであった。そしてかれらが同型式の前方後円墳に葬られたことは,大王を中心とする首長たちのあいだに,擬制ながら同祖関係が成立したことを意味する,という説が有力である。すなわち前方後円墳の出現は,古墳の成立を意味するといわれる。それほどに,この古墳には政治的性格が顕著なのである。5世紀の初頭ならびに後葉の2回にわたって,前方部が極端に短かい前方後円墳が盛行する。これは帆立貝式古墳として,王墓とは区別される。また韓国にも前方後円墳が存在するという説があるが,いまのところ確証をうるにいたっていない。