●1848年革命 せんはっぴゃくよんじゅうはちねんかくめい
ヨーロッパ 英国 AD
1848年にヨーロッパ諸国でおこった革命を,相互に関連するものと考えるところからいわれる名称。【産業革命】産業革命はふつう,18世紀後半におこったイギリスのものをさす。確かにイギリスは,産業革命によって優越した位置を得て,19世紀になっても“世界の工場”である。その意味では,18世紀の産業革命は,すぐれたイギリス的事象であった。
しかし,19世紀に入ると,ヨーロッパ大陸に産業革命が上陸してきた。その時期は国家,地域の諸条件によって異なるので,一概にはいえないが,1820年代から30年代にかけてが多い。また,産業革命の受けとり方もさまざまで,単にイギリスの古い機械をとりつけるもの,イギリス資本が入ってくるものから,自立的な形態まであったが,いずれにしても,19世紀前半を終えようとするところには一応,工業化がみられるようになってきた。このことは,従来の社会には存在しなかった工業資本家と社会層となる多数の工業労働者を生みだすことになる。さらに,各国の産業革命は,程度の差は異なるにしても,人口の都市集中をもたらせ,住宅,衛生,環境面で新しい社会問題を提出してきた。要するに,階級差が明確になり,搾取が問題になってきて,サン=シモン,フーリエ,ヴァイトリンクらの空想的社会主義がでてくるし,それを批判しながら,マルクスやエンゲルスの共産主義(科学的社会主義)も現れてきた。
【ウィーン会議の反動】ウィーン会議はフランス革命やナポレオンの出現によって混乱した秩序を再建するために,王朝や国境線などを,いわばフランス革命以前にもどしたといってよい。しかし,フランス革命を耳にし,ナポレオンのヨーロッパ征服によって,革命の成果をある程度は経験した各国民にとって,絶対主義的王朝国家にもどることは不可能であった。思想的には啓蒙主義や合理主義がひろまっていたし,その反作用としてのロマン主義も登場していた。これらが,国のおかれていた条件によって相違するが,新たな国民国家の建設をめざすナショナリズムヘと向かわせ,それがウィーン体制の打破をスローガンにさせた。ドイツにおけるブルシェンシャフト運動やこれを抑止しようとしたカールスバートの決議は,ウィーン体制内の衝突の例であった。ブルジョワジーはウィーン体制の抑圧を嫌い,自由な目家をめざしたし,労働者は自らの権利を主張する程度には成長してきていたのである。
【革命の年】1848年は動乱の年と呼ばれる。2月には,直接の影響はわずかではあったが「共産党宣言」が発表され,2月22日には,パリを中心にフランスで二月革命がおこり,ルイ=フィリップを退けて,ルイ=ブランらの空想的社会主義者を加えた臨時政府が成立した。それは,国立工場をめぐる六月事件以後,ブルジョワ共和派が支配するところとなり,ルイ=ナポレオンの登場をもって終わるのであるが,二月革命の報はただちに伝わり,ウィーンやベルリンでは三月革命が始まった。
フランス革命を経験した後の二月革命がブルジョワ民主主義革命の仕上げであり,すでに素朴ながらも社会主義的要素を含んでいたのに対し,ウィーンではメッテルニヒ打倒が主目標になり,ドイツでは国民統一と憲法制定が目的になった。メッテルニヒは革命のおこった3月13日に亡命し,プロイセンではフリードリヒ=ヴィルヘルム4世が議会の召集を約束した。オーストリア領の諸民族のあいだには独立や自治を求める革命がおこり,ことにハンガリーはコッシユートの指導によって,一時は独立を宣言するところまでいった。イタリアでもミラノ,ヴェネツィアから始まり,パルマ,モデナヘ反乱がひろまって,イタリア統一へと進んだ。こうした動きも,イタリアを平定したオーストリア軍がハンガリーを鎮圧し,9月以降は反革命に転じた。これには,オーストリア東部国境から革命勢力に圧力をかけたロシアの存在がみのがせない。ドイツでも反革命勢力が強まり,10月以降,フランクフルト国民議会は無視され,1849年には革命は敗北して終わった。イギリスはチャーティスト運動の末期にあたり,スイスやスカンディナヴィア諸国においても暴動がみられる。
【転換の年】1848年を工業発達が進み,大衆化が開始される,いわば現代史の起源とみるか,近代化運動が革命という形でこの年に集中したとみるかによって,この諸革命の意義のとらえ方が異ってくる。前者とみた場合は時代の転換をもたらす,時代区分のメルクマールになるし,後者の立場に立てば,未成熟な市民革命の年となるのである。
〔参考文献〕河野健二『現代史の幕あけ ヨーロッパ1848年』岩波書店