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●宣統帝 せんとうてい

アジア 中華人民共和国 AD1906 清

 1906〜67 中国清朝第12代最後の皇帝(在位1908〜12)で,のちに満州国皇帝(在位1934〜45)となる。姓は愛新覚羅,名は溥儀,清朝の年号によって宣統帝という。光緒帝の弟の醇親王タイホウ※注1※の長子。光緒帝の後をうけて2歳で即位し,父が摂政(せっしょう)となって満州人支配体制の強化をはかり,西太后(せいたいこう)の定めた憲政準備の推進につとめたが,1911年辛亥革命(しんがいかくめい)が勃発,難局打開のために起用された袁世凱(えんせいがい)が清朝の命運を左右することになり,彼があたった南方革命政府との交渉の結果,1912年やむなく上諭(じょうゆ)を発して退位することになり,清朝は太祖ヌルハチの建国以来12代297年,世祖順治帝の中国統治開始以来,10代269年で滅亡した。退位にあたっては優待条件として,退位後も[1]皇帝の称号を受ける,[2]年金を受ける,[3]当分の間は宮城に居住して後に頤和園(いわえん)に移る,[4]宗廟や陵墓などの祭祀をつづける,などがとりきめられ,中華民国の発足後もなお紫禁城内にとどまった。遺臣や旧臣たちのあいだには復辟(ふくへき)を願望する動きがあった。袁世凱が正式の大総統となって実権をにぎり,さらに帝制の復活をはかって自ら帝位につこうとし,反対運動にあって悶死したあと,1917年,大戦参戦問題をめぐって政局が紛糾したとき,これが表面化した。清末保皇派の康有為とかねてから親交のあった張勲が,この政局を収拾した機会に康らと画策して復辟を決行し,宣統帝を擁立して宣統初年を再現しようと試みた。しかし旬余で失敗に終わり,その後はイギリス人ジョンストンの教育をうけたり,1922年,16歳で皇后をたてたりした。1924年勇退条件が改定され,[1]皇帝の称号の廃止,[2]宮城からの即時退去などを迫られて,紫禁城から父の醇親王府にのがれ,さらに日本の公使館に入り,1925年から天津の日本租界の張園に移った。復辟をめざす鄭孝胥(ていこうしょ)や羅振玉(らしんぎょく)らが側近となり,日本の要人たちとも接触し,将来の復辟の第一の援護勢力として期待を寄せるようになった。1929年,静園に移ったが,身辺は静かではなくなり,日本軍側との往来がしだいに激しくなってきた。1931年,清朝発祥の地域で満州事変がおこると,年来の願望と日本軍の策謀の中で静園を脱出し,日本軍の手引きで白河を下って大沽港外に至り,商船淡路丸に乗船し,営口をへて湯崗子温泉へ,さらに旅順に移った。翌1932年,満州国の建国が宣言され,首都は新京(長春),年号は大同と定められると,執政となって新国家の元首の地位に就任した。さらに1934年,満州帝国に移行し,康徳と改元され,改めて満州国皇帝となるが,清朝皇帝を退位してから23年目,28歳であった。日本を盟邦として1935年,1940年の2回公式に訪問し,第1回訪日の航海中に〈海平如鏡,万里遠航,両邦携手,永固東方〉の四言詩をつくり,日満両国は手をたずさえて,永く東方を固めようという心境を吐露した。しかし,満州国は永くは続かず,1945年8月,ソ連軍の侵入をうけて通化近くの大栗子溝に移り,日本の降伏によって満州国の解体と退位を宣言し,日本へ脱出の途中,瀋陽でソ連軍に捕えられ,チタをへてハバロフスクの収容所に抑留された。1946年,極東軍事裁判に検察側証人として出廷した。満州国の元首就任は日本軍の脅迫によるものであって,自発的意志によるものではなく,航海中の心境もまた単なる社交上の応対にすぎず,本心ではないと述べたが,証言そのものが自発的意志によるものではないという印象を与えた。後年,自伝の中で,当時,罪を逃れるために強要されたということばかりを述べて,〈日本との結托をすべて否認した〉と記している。1950年,ソ連より中国政府に引き渡されて,撫順やハルビンの戦犯管理所に収容され,1959年特赦によって出所,35年ぶりに北京へもどった。1961年,政治協商会議文史研究委員会専門委員,1964年,政治協商会議全国委員となり,一市民として余生を送り,1967年北京で病死した。61歳。

〔参考文献〕愛新覚羅溥儀,小野忍・野原四郎・新島淳良・丸山昇訳『わが半生−−“満州国”皇帝の自伝−−上下』1977,筑摩書房

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