●禅僧 ぜんそう
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禅宗僧侶の略。禅は冥想を意味するサンスクリット dhyana の音写“禅那(ぜんな)”の略であり,定・静慮・思惟修などと漢訳する。僧は同じく仏となるための道を修する人たちの集団を意する samgha の音写“僧伽(そうぎゃ)”の略。衆あるいは和合衆と漢訳する。【初期の禅僧】524年ごろボダイダルマ(菩提達磨/摩,?〜436/528)が西域から洛陽の都にやってきて,崇山の小林寺の洞窟で“坐禅”を修したので当時の人は彼を“壁観バラモン”と呼んで奇異の観をもった。のちになって禅宗教団の人たちは彼を“禅宗の初祖”と仰ぐようになった。けだし禅僧の嚆矢とすべきであろう。やがてダルマの教えに従って坐禅を修する人たちが鳥や獣たちと親しみながら,深山幽谷に棲むようになると,これを訪ねて教えを乞う者がしだいにふえた。彼らははじめ一所不住の遊方行者であったが,やがて修禅の師を定めてそのもとに止住するようになり,ここに禅僧たちの共同生活集団が成立した。集団の成員は国の各地から集まった種々さまざまな人たちであり,それはあたかも名木雑木の混生する林のようであったので,彼らの集団を“叢林”と呼んだ。叢林には“清規(しんぎ)”と称する生活規則が生まれ,ここに衣食住はもとより集団生活のための職位や儀礼にいたる禅僧独自の生活形態が確立したのである。唐末から五代にかけて中国の江西や湖南の山々には叢林が開かれ,それぞれに500〜1,000人の禅僧が生活した。もちろん,これらの叢林に一夏(3カ月)滞在する(これを安居という)だけで次々と歴参遊方する禅僧もあり,これを“頭陀行者(すだぎょうじゃ)”と呼んだのである。
【叢林の生活】叢林には住持あるいは長老と呼ぶ大善知識がいて,すべての修行僧(雲衲あるいは学人という)はこの師の指導を受けて人生の一大事を解決するために坐禅をし,説法を聴き,問答商量をする。生活の作法は洗面,食事,用便,散歩,就寝にいたるまで厳格に規定されていて,これに反すると叢林から追放されるのである。このように生活がそのまま仏道の修行であるとするのが禅僧の基本であり,宗教体験としての“悟り”は日常生活の動きのなかでなされたのである。〈一日作さざれば一日食らわず〉という百丈禅師(懐海749〜814)のことばはこのことを示している。宋代になると地方長官などの士大夫が叢林を訪ねるようになり,禅僧たちの生活がしだいに文化的になっていく。叢林では文芸が盛んになり,生活が貴族化し,このために禅僧は唐代のような野趣と禅機を失っていった。
【日本の禅僧】わが国に禅僧の姿が現れるのは鎌倉時代である。とくに入宋求法した永平道元(1200〜53)は大宋国の叢林生活をそのままわが国に再現したわが国最初の禅僧であるといえる。そののち,とくに臨済宗において,宋より来朝してきた中国の禅僧や,わが国から宋へ渡って禅を将来した日本の禅僧たちが,幕府や朝廷の外護を受けて鎌倉や京都に禅寺を開き,わが国の政治・経済・文化の発展に大きな貢献を果たした。これがいわゆる五山の禅僧たちである。そのような中央での輝かしい禅僧たちの活躍を批判し,唐代の純粋な禅を再現しようとした禅僧たちの一派もあった。山隣派とが林下とか呼ばれるこれらの人々は,枯淡清貧の生活に甘んじ,もつぱら己事究明(真実の自己を追求すること)のみに生涯を捧げる努力をした。この一派を“応灯関の一流”という。
【現代の禅僧】徳川時代以降,禅僧は二つのタイプに分かれた。一方では徳川幕府のキリシタン禁制の政策によって,寺檀制度が確立し,従来禅僧たちの修禅の場であった禅院が檀家を管轄し,また檀家によって経済的基盤を得る檀那寺となったため,禅僧は著しく俗化し,禅寺の住職としての禅僧は寺門後継者としての雛僧を教育する役割に転じた。他方でこのような禅宗の堕落から禅の命脈を守ろうとする宗教運動がおこった。これが近世以来の専門道場における禅僧の修行である。修行僧たちは“雲水”と呼ばれ,今日も全国各地の僧堂で日夜坐禅に励んでいる。
〔参考文献〕西村恵信著『禅僧の生活』(生活史叢書32)1983,雄山閣出版
『禅の語録』全20巻,1969〜,筑摩書房
『日本の禅語録』全20巻,1979〜81,講談社
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