●戦争 せんそう
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戦争とは,二つ以上の相対立する国家またはこれに準ずる社会集団のあいだで,武力を含む各種の手段を行使して,相手の意志を強制する行為,またはその状態である,というのが一般的定義である。そしてそのおもな特色としては,[1]戦争においては,勝利を得ることが最高の目的であり,この目的達成のため,交戦者は一切の戦力を発揮して敵の死傷,破壊につとめる。その結果,そこには手段を選ばない,クラウゼウィッツのいわゆる「暴力の無限界的行使」の相互作用が生ずる。[2]第一次世界大戦までの戦力は,武力がそのほとんどすべてであったが,第一次世界大戦以後は武力のほか,政治,経済,科学技術,思想,文化など国家の諸力を含むようになった。[3]戦争の開始は宣戦布告または実力行使によって行われ,戦争の終了は事実上の戦争行為の停止(自然終結),講和条約の締結および征服のいずれかによる。奇襲戦法の価値が高く評価される時代における開戦は実力行使によって行われる場合が多い。また講和条約は講和会議によって締結され,賠償金の支払い,領土の割譲その他敗者に対する勝者の要求事項がその内容の中心をなす。[4]国際法や戦争法規は戦争の放棄,外敵手段の制限など種々戦争当事者の権利義務を定めているが十分に遵守されてきたとはいいがたい。以上のような一般的知識をもって,実際におきた戦争を顧み,戦争の本質を究明することにする。【戦争の歴史】戦争の歴史は人類の歴史とともに始まったといわれ,その件数は過去5,500年間に約1万4500回という統計がある。しかしここでは時代ごとに概観するにとどめる。古代にはオリエントを始め地中海周辺に,多くの都市国家や帝国が興亡し,やがてローマ帝国の出現によって,パックス=ロマーナ(前31〜375)が訪れる。これらの興亡はすべて戦争によってなされたが,そのなかには歴史上有名なペルシア戦争(前492〜前480),ペロポネソス戦争(前431〜前404),アレクサンドロス大王戦争(前336〜前323),ポエニ戦争(前264〜前146),シーザーのガリア征討(前58〜前52)などがある。軍隊は古代を通じて徴兵・傭兵の両制があり,外人部隊も現れた。また戦時には男子はすべて兵士となった。したがって軍勢は多く,たとえば第3回ペルシア戦争においてペルシア王が直率した陸兵は,ヘロドトスによれば264万余名(後世史家は実数はその1割程度と見積もっている),軍船(ガレー船)1,207隻であった。武器は攻撃用として刀剣・槍・弓矢など,防御用として甲冑・盾などであった。古代後期には戦略戦術もすすみ,さきに述べた第3次ペルシア戦争においてギリシア艦隊を指揮したテミストクレス,そして第2回ポエニ戦争でカルタゴ軍を率いてイタリアに攻め入ったハンニバルは,ともに世紀の名将として戦史に輝いている。中世は375年のゲルマン民族の大移動からマルティン=ルターが宗教改革に踏み切った1517年までとされているが,ゲルマン各部族のローマ帝国内への進入,またその王国の建設は一般に平和的で,かつまとまりがよく,10世紀ごろには最も安定した封建社会となった。この中世社会に戦争の嵐をもち込んだのは東方民族であった。ツール=ポアチエ(南仏ロアール川流域)の戦い(731)は,北アフリカを征服し,海峡を渡って西ゴート王国(スペイン)を滅ぼし,さらに北進してきたサラセン(ウマイア朝)をフランク王が破り,キリスト教社会の危機を救った歴史的な戦いである。また中世中期の大戦争で,社会的影響の大きい十字軍(1096〜1270)はセルジューク=トルコが,イェルサレムに巡礼するキリスト教徒を迫害したことによるものであった。13世紀ごろ大帝国となった蒙古は二途に分かれて東ヨーロッパに侵入し,主力は1236〜42年,南ロシアを占領し,かつシレジアのロールスタットでポーランド=ドイツ騎士団を粉砕した。南に向かった他の一軍はメソポタミアを占領し,サラセンを滅ぼした。またオスマン=トルコは1453年,コンスタンティノープルを攻落し皇帝を敗死させ,東ローマ帝国を滅ぼした。一方,王権の最も発達したイギリス,フランス両国のあいだには,北仏フランドル毛織物工業地帯をめぐる政治・経済上の利害の衝突と,フランスのカペー家断絶に伴う王位継承問題で,百年戦争がおき,イギリスの敗北に帰した。またその結果,イギリスでは王位争いのばら戦争(1455〜85)がおこり,貴族の没落に拍車をかけた。王はこのおとろえた貴族を抑えて,中央集権を大いにすすめた。中世の軍隊は騎士が主体であるが,その武装費用(各自の自弁)などの関係で,騎士になるものは富裕な貴族に限られ,その数は少なかった。したがって諸侯間の戦争は小集団の小ぜり合いか,一騎討ちであった。またとくに注目すべきことは,クレッシーの戦い(1346)で初めて火器が出現したことである。1517年,ルターは宗教改革ののろしをあげた。以後を西洋史では近代というが,宗教改革は世界を新旧両教に分けた。一方,中央集権化がすすみ絶対主義国家が出現して相対立する。そこでは王位継承は重大な国家的問題で,それをめぐる争いの種を宿した。さらに地理上の発見は植民地獲得のための争いをおこし,前述の諸要因に絡むことになる。かくして生じた諸戦争を大きく分類して掲げれば次のとおりである。[1]宗教戦争ユグノー戦争(1562〜98),オランダ独立戦争(1568〜1648),三十年戦争(1618〜48)[2]植民地争覇戦争スペイン=イギリス戦争(無敵艦隊)(1588),オランダ=イギリス戦争(1652〜74),英仏植民地百年戦争(17世紀中頃〜1763)[3]王位継承戦争 ファルツ継承戦争(1688〜97),スペイン継承戦争(1701〜14),オーストリア継承戦争(1740〜41),七年戟争(1756〜63)[4]ロシアの拡張戦争シベリア進出(16世紀〜18世紀),露土戦争(1710),北方戦争(1700〜21)[5]市民革命 ピューリタン革命(1642〜60),名誉革命(1688)[6]アメリカ独立戦争(1775〜83)。この時代になると銃砲が普及し,給料で傭える兵土(soldier)が出現したので,君主は多数の兵士を傭い常時奉仕させた。これが常備軍であるが,以後兵制の改革はすすみ,1788年フランスにおいて師団制が採用され,近代的軍隊組織の基礎を開いた。また海軍は帆船軍艦が主体となり,植民地獲得をめぐる海戦が頻発するが,やがて海はイギリス海軍の制覇するところとなる。フランス革命は,革命戦争からナポレオン戦争へと発展した。ナポレオンは自由解放を旗じるしに掲げたが,かえって占領地住民のあいだに民族意識を呼びおこし,戦後民族解放,あるいは民族統一の戦争を誘発した。一方先進諸国の資本主義の発展は帝国主義的膨張を促し戦争の因をつくった。これらによって生じた戦争の主なものを大きく分類すれば次のとおりである。[1]革命戦争 フランス革命戦争(1792〜99),ナポレオン戦争(征服戦争,1799〜1815)[2]民族解放戦争 ラテンアメリカ独立運動(1810〜25年のあいだに12の独立国が生まれた),ギリシアの独立戦争(1821〜29),ベルギーの独立戦争(1831),バルカン諸国の独立戦争(セルビア−1830,ルーマニア−1878,ブルガリア−1878),エジプト戦争(1832,33の2回とも成功せず),クリミア戦争(1854〜56)・ロシア−トルコ戦争(1877〜78。この両戦争はロシアの侵略戦争の性格をもつ),太平天国の乱(1850〜64),セポイの反乱(1857〜68)[3]民族統一戦争 イタリア統一戦争(1859〜61),ドイツ統一戦争(デンマーク戦争−1864,普墺戦争1866,普仏戦争−1870〜71)[4]帝国主義戦争 イギリスのエジプト出兵・保護国化(1881),ボーア戦争(1899〜1922),アルジェリア戦争(1820〜27),イタリア−エジプト戦争(1896),アヘン戦争(1840〜42),北清戦争(1900),アメリカ−メキシコ戦争(1846〜47),第1次仏越戦争(1857〜62),第2次仏越戦争(1873〜83),米西戦争(1894〜95)[5]争覇戦争 南北戦争(1861〜65),日清戦争(1894〜95),日露戦争(1904〜05),第一次世界大戦(1914〜18)など。ナポレオン戦争から第一次世界大戦までの軍隊などについては後述に譲る。また第二次世界大戦は第一次世界大戦の相似的拡大ととらえることができる。両大戦間におきた主な戦争は日中戦争(1931〜45)がとくに目立つ。欧州ではギリシア−トルコ戦争(1921〜22),イタリア−エチオピア戦争(1935〜36),スペイン内乱(1936〜39)など,以上の概観は小戦争を省いているので頻度を知るために利用することはできないが,戦争が時代を通じて繰り返され,かつ類型化が可能であるという一般的傾向を示しているとみてよいであろう。なお戦争期間については,上記を合計して約1,100年が得られるが,これについてはドイツの社会学者ソローキンの算定した,12世紀から19世紀までの統計があり,その1世紀平均イギリス50.4年,フランス53.6年の比較的権威のある資料のあることを紹介しておきたい。
【戦争誘発の動機】クラウゼウィッツは,その『戦争論』のなかで,戦争の内在的本質が決闘的性格であり,決闘の拡大されたものが戦争であるとし,その状況を2人の格闘者に準えるが,問題は何が格闘者に仕立てるかにある。すなわち戦争誘発の動機は何かということである。これについて前項の諸戦争が教える第1の動機は“征服欲”である。古代の戦争においては,征服者はそれを赤裸々に打ち出している。後世では他の要因を絡ませ,たとえばフェリペ2世(イギリス征服のため無敵艦隊を派遣したスペイン王)はイギリスの旧教徒の救済その他を,ルイ14世は王位継承に,ナポレオンは諸国民の解放を,ヒトラーはヴェルサイユ体制の打破を表面に掲げるが,その根底には相手を屈服させなければならないという欲望と同時に,戦えば必ず勝つという確信,すなわち征服欲が燃えているのである。また近代帝国主義戦争と呼ばれる侵略戦争も戦争指導者に征服欲があってのことである。もっとも征服欲以外の,たとえば領土的野心だけでおこしたり,一途に覇権争いに徹した戦争がないわけではないが,これらのうち最多の動機は“信仰”である。十字軍はイスラーム教徒とキリスト教徒の戦争であり,また三十年戦争は新教徒と旧教徒との戦争である。そのほかにも宗教が契機となった戦争は少なくないが,信仰が戦争の動機となるのは,信仰の虜になった信者たちは正しい信仰(真信)であるか,誤った信仰(迷信)であるかを判断する能力を失い,一途に自己の信仰を他人に強要し,また逆に自己の信仰に弾圧が加えられると,強烈に抵抗するのである。近代後期になると共産主義者もこの種の信者とみられるようになった。征服欲を伴わずにおきた戦争のもう一つの動機に“民族主義”がある。異民族敵視という未開社会の争いの動機はいまも消失してないが,近代後期に多発した相次ぐ民族主義に起因する戦争は,すでに類型化したごとく,第1は民族解放戦争で,これまで圧迫され,あるいは差別されてきた民族が,その被支配体制を脱しようとするときにおこる戦争である。第2は積極的に民族自決の原則に立って主権を回復しようとする民放独立戦争である。第3は同一民族でありながら,分裂国家を形成している国家間の統一の際におきる戦争で,一般に他の要因が加わって複合的となるが,その中心は民族意識である。次に掲げたいのは“嫉妬ないし憎悪”である。世界的海戦史家として有名な米国のマハンはその『海上権力史論』において,オランダ―イギリス戦争について〈原因は,疑いもなく商業上の嫉妬である〉といいきっている。第3回ポエニ戦争におけるローマが,征服を超えてカルタゴを抹殺するための予防戦争をおこした動機は,敗戦国カルタゴの繁栄に対する嫉妬と,第1回および第2回ポエニ戦争を通じての憎悪があった。嫉妬といい,憎悪といい,現代社会でも個人間の闘争心を駆り立てる刺激的動機となっており,国家間にも当然に類推できることである。本稿において最後に挙げたいのは“人口”の問題である。百年戦争,三十年戦争あるいはフランス革命および続くナポレオン戦争などの誘因に,そのころ,人口が激増したことを挙げる学説がある。フランスの社会学者ガストン=プートウルやドイツの経済学者ワーゲマンらの研究によるもので,その説を約言すれば,〈紛争をひきおこすような争いの種はいつの時代にも存在している。そこで問題は何故に爆発が他の場合におこらず一定の時期におこったかという点にある。ところがそれは,人口学的構造によって規定されている〉というのである。すなわち,人口は戦争資源であると同時に社会的エネルギーの源泉である。したがってその増加は社会エネルギーの興隆発展をきたすというのであり,支持できる主張であるので引用する。なお以上のほか,“経済”上の争い,あるいは“覇権”を求める争いも以上の諸項に次ぐ動機と考えられる。
【戦争形態発展の一般的傾向】中世の戦争は,古代に比べて兵力も少なく,騎士が重装歩兵に代わったとはいえ,戦法は単純であった。したがってハンニバルやラミストクレスのような名戦略家は出なかった。それゆえ,戦争形態としては後退したとみてよい。そこで近代随一の名将ナポレオンのとった戦争形態を,歴史的に位置づけるには,中世をおいて古代に溯り,ハンニバル戦争と対比するのが適当である。その比較において大きく異なるところは,ナポレオンは戦争に次ぐ戦争をもって欧州大陸の征服に成功したが,ハンニバルはイタリアに攻め入った当初は優勢で,彼の卓抜な戦略を実施することができたが,次第に兵力は減少し,ついにローマを陥れることができなかった。このように大きな差の生じた根本的な原因は,ナポレオンは彼が創建した国民的軍隊をもって愛惜することなく使い,かつ開発の進んだ作戦現地での補給ができたのに対し,ハンニバルの場合はその補給路(海上)を断たれ,また現地の開発は進んでいない上に,住民の強い抵抗があったため,現地利用がきわめて困難で,兵士は減り,物資は事欠くばかりであった。このことは軍隊制度と補給体制が戦争形態に大きく影響することを示している。ところで第一次世界大戦とナポレオン戦争とのあいだには,その戦争形態に隔世の開きが生じている。たとえば第一次世界大戦の戦死約900万人,負傷2,000万人という数がナポレオン戦争を含む19世紀におこった戦争による犠牲者総数の2倍以上に達するのもその現れである。そこでまず第一次世界大戦の戦略を顧みるに,英仏の将軍たちはともにナポレオン戦史に深く学び,その殲滅戦略に憧れていたので,思想的にはナポレオンと軌を一にしたことがわかる。したがって戦争形態に隔世の変化を生じさせたものは,別にあったとみなければならないので,第一次世界大戦の戦争形態の特徴を挙げて検討する。第一次世界大戦の主な特徴としては,長期戦・総力戦・3次元戦・科学戦および世界的規模の5項目が挙げられる。長期戦になった原因は,ドイツがマルヌの緒戦に失敗したこと,陣地戦になったこと,海戦が重要な役割を占め,とくに潜水艦が活躍したことおよび両陣営とも強大国が主体となったことである。また総力戦となったのは,長期戦となり,科学戦となり,そして国民戦争であったためで,戦争の経過とともにしだいに総力戦となったのであるが,戦争の終わりのころになると総力戦こそが勝利を得る第1の要諦とみられるようになった。3次元戦争とは,陸(水上)・空・水中の戦いが同時的に行われたことで,ナポレオン戦争とはまったくその構造を異にした。科学戦とは,飛行機・潜水艦・戦車などの新たに出現した巨大武器の質的量的優劣,また海上では大艦巨砲が,会戦の勝敗を決するようになったが,これらはもっぱら科学技術の発達と経済力に負うことを意味する。なお科学戦の果たす分野は,これら巨大武器だけでなく,火砲・自動火器・通信武器・近代築城など戦線の末端にも及んだ。戦争が世界的規模となったのは参加国が全世界にわたったことであり,とくに米国の参戦がそれを本格化した。なお米国を参戦にいたらしめた決定的原因はドイツの行った無制限な潜水艦戦であった。以上の第一次世界大戦の特徴はいずれもナポレオン戦争にみられなかったことであり,したがってその戦争形態に革命的な変化が生じたというのはきわめて至言である。これに対し第二次世界大戦の戦争形態は,第一次世界大戦の相似的拡大ととらえることができる。それは先に挙げた前大戦の諸特徴はそのまま引き継がれ,それが一段と大規模に,かつ際立ったことをいうのである。すなわち,戦域は拡大し,戦闘は激化,会戦回数は陸海とも増し,とくに航空機の発達が著しく,制空権の獲得が陸海を通じ最も重要な戦略となった。しかしこれらはすべて前大戦と相似的であり,なんら革命的変化というべきものはない。それは一に革命的な巨大武器が現れなかったことによるが,参戦国の構成に基本的な変化がなかったことも一因といえよう。ちなみに第一次世界大戦の参戦国数は連合側19(30),同盟または枢軸側4(7)であった。この両大戦の比較は,戦争形態は大きく武器によって支配されることを裏から証明したことになる。なお原爆はその出現が遅く,ロケットは未だ十分威力を発揮するにいたらなかったことを付記したい。
【勝敗の意味】古代以来の戦争の結末を顧みると,一般には敗者に条件付き降伏が認められ,領土の割譲・賠償金の支払などの義務が課せられ,勝者はそれを発展興隆の資としたのである。敗者もまた敗戦を刺激として巧みに利用すれば再起発展の道が求められることは第二次世界大戦の敗戦国,西ドイツおよび日本の事例が物語るとおりである。しかし注意しなければならないことは,1回の敗戦は克服できても,敗戦を重ねるときは,再起発展の根源を枯渇してしまうということで,古くはカルタゴ,近代初期のオランダ,近くはオーストリア,トルコなどがその例を示している。また戦争に伴って生じた国際法および戦争法規の違反を戦後に追及し,該当者を処罰した第二次世界大戦直後開設された国際軍事裁判は,(戦時)国際法の権威を高め,戦争中のヒューマニズムを確立する上に一時期を画したものと評価したい。しかし実際には敗戦国に対してのみ行われ,戦勝国の違法行為はなんら問われなかった。それゆえ裁きを受けた多くの受刑者たちは,法の美名を掲げた勝者の敗者に対する報復ないし制裁であり,古代の戦争で勝者が敗者を奴隷としたのと裁く精神に変わりないと受け止めている。それゆえこのような法の根本にかかわる問題提起がいつまでも不問に付されるならば,先に述べた軍事裁判への評価は取り下げなければならない。
【これからの戦争】まず第二次世界大戦後の戦争を顧みると,朝鮮戦争(1950〜53),インドシナ戦争(1945〜54),ヴェトナム戦争(1965〜75),中東戦争(1947〜73),フォークランド紛争(1980),イラン−イラク戦争(1980〜現在)が挙げられる。これを通じてまず気づくことは,戦争は依然として後を絶たないということである。またその傾向として民族主義によるものが多く,大戦中の民族独立運動と併せみるとき,今後も重大な戦争要因,または戦争誘発の動機となるであろうといえる。他面,米ソの対立は大戦直後から激しく,冷戦ということばも生まれたが,戦争は防止された。勢力均衡による平和か,第三次世界大戦の惨禍を含んでの戦争回避か,いずれにせよ大国の平和は保たれている。ところで全世界が挙げて恐れる第三次世界大戦とは,米ソを主体とする両陣営間に展開される全世界を戦場に巻き込んだ核全面戦争である。核の威力はその一端を太平洋戦争末期,広島と長崎に投下した米軍の原子爆弾で示したが,それぞれ一発で全市を灰燼に帰させたことは,もはや,それがこれまでのいかなる武器も追随を許さない絶対兵器であることを物語った。したがって一度核兵器が登場するとき,そこにはもはや,戦争形態もなければ,もちろん戦争目的も存在し得ないのである。それにもかかわらず,米ソ両国は一途に核攻撃態勢の拡充に努め,現在では一撃によって相手陣営を壊滅させ,かつ全人類を死滅させ得るという。それゆえ,第三次世界大戦の防止は人類の存亡のかかった切迫した課題となってきた。そこでこれまで述べたことのまとめの意味を含め,これに答える緩急二つの提言を行いたい。急なる提言は“米ソによる平和”の実現である。すなわち,米ソ両核大国が協力して,第二次“ローマの平和”を実現することである。それは米ソの指導者が,戦争と平和の歴史を深く顧み,その上に立って現に保有する核兵器をいかに意味づけ,また位置づけるがを冷静に考えるとき当然に達する結論ではなかろうか。また緩なる提言は,科学者に対し,原子爆弾を世に出した責任において,今や魔物と化した核兵器を葬る研究をすすめてほしいということである。