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●占星術 せんせいじゅつ

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 天体によって人間の運命や将来を占う方法。古代においては科学としての天文学と区別することは難しく,不可分に発達した。古代人は日月や恐しい風雨・雷を天から与えられるものと考え,天を信仰の対象とするようになり,この天への信仰から占星術が生まれた。まずバビロニア人は日月の整然たる運行から宇宙には法則と秩序があり,同時にこれらの天体は神聖な力をもつと考えた。やがて日と月のほかに水,金,火,木,土を加えた七惑星がとくに重視され,その運行はしばしば国家あるいは国王に影響するとみなされた。バビロニアでは前2000年ころ若干の星座が考えられたが,紀元前6世紀には「黄道十二宮」の知識が完成し,これと七惑星の関係を利用する十二宮占星術が盛んに用いられた。

 バビロニアの占星術はやがてギリシアに伝わった。バビロニアではもっぱら国家や王の運命が問題となったが,ギリシアに伝わると前3世紀ころから一般人を対象とする占星術が行われるようになった。バビロニアの十二宮占星術を体系づけたのはプトレマイオス(2世紀)の著作『テトラビブロス』(四書)で,後世の十二宮占星術に大きな影響を与えた。こうした個人の占星術には,その個人の生まれたときの天体の状況を書いたホロスコープが重視された。ホロスコープでは黄道十二宮のどの宮が東空にのぼっているかが重要だったが,同時に惑星がどの宮にあるかが個人の運命を左右するものと考えられた。こうしてギリシアに伝わった占星術はきわめて複雑なものとなり,すべての科学と結びついた。惑星と金属,色彩,動植物とがそれぞれ対応づけられ,その対応物は惑星の支配を受けた。人体の合部も惑星と関係づけられ,病気は天体現象によって説明された。ギリシアではその後,ドロテオス,テウクロス,アンティオコスらが占星術家として著名であり,ローマ占星術家としてはウェッティウス,ワレンスの名が知られている。ローマでも占星術は広く行われたが,のちにキリスト教の公布とともに衰えた。バビロニアの十二宮占星術は古くからインドに伝わった。インドではバラモン僧が天体によって祭祀の日取りを決め,かつ国家や王の運命を占ったので,占星術者の力は強くなり,天文学も占星術に奉仕した。

 イスラームの占星術はギリシアから諸科学とともに十二宮占星術が入り,すでに入っていたインド占星術とともに成立した。すなわち8世紀にはインドの天文学書『シッダーンタ』カミ『シンド=ヒンド』の名でアラビア語で訳され,9世紀にはプトレマイオスの『テトラビブロス』や天文学書『アルマゲスト』がアラビア訳された。イスラーム世界で占星術師として知られた人は,マーシャー=アッラーフ(815ころ没),アブー=マシャル(886没),サフル=イブン=ビシル,アル=ハイヤート(835没),アブー=バクル(9世紀後半),イブン=クタイバ(828〜889),アル=イムラーニー(955/6没)らがいる。このなかでもとくに名高いのはブハラ生まれのアブー=マシャルで,ラテン名ではアルブマサルといい,多くの占星術書を著したことで知られる。彼の書はラテン語に訳され,中世ヨーロッパに伝えられた。その中心はホロスコープによる個人の運命占いで,中世以来ヨーロッパ各地に伝えられ,今日に及んでいる。占星術は中国でも行われた。古代中国では占星術は国家機構の一部として,もっぱら国家と国王の運命を占った。一般の庶民は占星術には関心が薄く,もっぱら陰陽五行説などから生まれた迷信により,将来を予測した。また中国では陰陽説あるいは五行説を媒介として,占星術と諸科学の結びつきが行われており,もともと陰陽説五行説が日,月および五惑星と関係深いので,これも占星術から発生したものといえよう。中国の占星術とバビロニアの占星術を比較してみると,きわめてよく似ている点があり,占星術は西方から伝来したものと思われるが,これについては強く反対する学者もおり,まだ結論は出ていない。

〔参考文献〕飯島忠夫『支那古代史論』1941,第一書房