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●禅宗 ぜんしゅう

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 中国仏教十三宗の一つ。日本仏教十三宗の一つ。坐禅を修する宗派を意味する。ボダイダルマ(Bodhidharma 菩提達磨/摩 ?〜前436/528)が伝えたので「達磨宗」ともいい,ブッダ(仏陀 ?〜前485)の悟りの内容を“以心仏心”しているので,「教宗」に対して「仏心宗」ともいう。

【宗祖ダルマとその教え】ダルマは謎の人物でその伝は明らかでないが,北魏時代の末(727ごろ)シルクロードを通って洛陽にやってきたペルシア人で,当時すでに150歳であったとするのがこんにちの定説である。彼の説いたものとして信じることのできるのは敦煌出土の『二入四行論長巻子(かんす)』や『菩提達摩無心論』である。ダルマの説いた“二入四行”の教えは次のようである。二入とは理入と行入であり,さらに行入が四つに分けられる。〈理入とは教えによって宗義を悟り,すべて生けるものは同一の真性をもっているにもかかわらず,煩悩の塵によって覆われてみえないだけであると信じることである。もし,妄念を捨てて真実に帰り,壁のように堅固に心を凝住させ,自と他,凡と聖が一つとなって動かず,こうして心がことばや教えに引きづられなければ,真理と一つになり,迷いがなく静寂の境に入るのである。これを理入という。〉四行とは“報怨行”(怨みを懐かない),“随縁行”(感情に支配されない),“無所求行”(執着心を捨てる),“称法行”(すべては空であることを信じて無心になる)の四つによって真理に契(あ)うことである。

【禅宗の歴史】禅宗が一宗派として独立するのはダルマから200年以上後のことであり,独自の立場を主張した禅僧たちは,自分の立場を証すための歴史を捏造した。初祖達磨,2祖慧可,3祖ソウサン※注1※,4祖道信,5祖弘忍,6祖慧能という法系と教義が体系づけられて禅宗成立の基礎づくりがなされると,その後,唐代の末から五代にかけて禅宗は大いに盛んになる。唐の圭峰宗密(けいほうすみつ,780〜841)は『禅源諸詮集部序』において禅を“外道(げどう)”“凡夫(ぼんぶ)禅”“小乗禅”“大乗禅”“最上乗禅”の5種に分類し,達磨禅こそ最上乗禅であるとし,中唐に南北に分裂した禅宗が百家争鳴しているなかでも,とくに盛んなものとして江西・荷沢・北秀・ナンシン※注2※・牛頭・石頭・保唐・宣什・稠那・天台の十家をあげている。これらのうち洛陽・長安の都を中心に天子の帰依を受けて発達した“北宗”に対して,江西・湖南の地方に開花発展した“南宗”が中国禅宗の主流となっていく。南宗禅の祖とされるのは6祖慧能(638〜713)であるが,彼のもとに南嶽懐譲(なんがくえじょう 677〜744)と青原行思(せいげんぎょうし,?〜740)の二大弟子が出て,南宗は南嶽下と青原下の二大潮流に分かれる。南嶽懐讓の法孫である百丈懐海(749〜814)は〈一日作らざれば一日食らわず〉の語で知られる禅者であるが,彼は初めて禅の修行道場(これを叢林という)の生活規則を作った。これが「百丈清規(しんぎ)」と呼ばれるもので,こんにちにいたるまで禅僧の衣食住および職位・儀礼の基本となっている。中国唐代の山々はこのような禅の道場でにぎわい,一人の善知識のもとに500〜1,000人の修行者が集まった。かれらは一所不住の歴参遊方をして自己の一大事を究明する人たちであり,禅匠たちも,おのおの独特の禅を挙揚した。各道場の特色を“家風”あるいは“宗風”というのであるが,中国禅の最も盛んな時代には,いわゆる“五家七宗”が妍を競ったという。五家は南嶽下から生まれたイギョウ※注3※宗・臨済宗,青原下から出た曹洞宗・雲門宗・法眼宗であり,さらに臨済宗下の黄龍派・楊岐派の二支を加えて七宗とするのである。唐代の禅僧たちは宋代に入ると,士大夫たちとの交わりを通じて高い貴族文化を吸収する一方,禅者本来の目的から逸脱した禅文化人と化し,しだいにその宗教的力を失っていった。彼らは,かつての唐代禅者の問答や商量を集め,これら古人の話頭(わとう,エピソード)を模範として自己錬磨の鑑とするようになった。これを“看話禅(かんなぜん)”といい,これに対してただひたすらに坐禅を修すべきことを主張した禅の一派を“黙照禅”という。わが国へ伝えられた禅宗は宋朝の禅であるが,それらは鎌倉・室町時代を通じ,中国の来朝僧やわが国の入宋求道僧たちによって将来されたのであり,そのルートには実に“二十四流四十六伝”が数えられる。それらはいずれも中国禅のうち臨済宗・曹洞宗の二宗に限られており,明代の中国からわが徳川期に将来された黄檗宗もまた臨済宗の傍系にほかならない。

【禅宗の教義】ダルマの弟子曇林(どんりん)は,『二入四行論』の序に〈理入とは安心であり,安心とは壁観である〉とし,『続高僧伝』の編者道宣(596〜667)はダルマの禅の特色を“壁観”にあるとする。壁観は面壁して坐禅することではなく,壁が観ることであり,般若(はんにゃ)の空観(くうがん)と同じく世界を如実知見することであるという。そういう知慧を開発することが禅者の求める宗教的安心である。〈坐禅はこれ安楽の法門〉といわれるのも同じであり,坐禅と知慧とは同一のことにほかならない。坐禅を知慧への道,あるいは手段と考える立場は“漸修漸悟(ぜんしょうぜんご)”といわれる。このようなインド的小乗禅から脱皮して,中国禅を独立せしめたのは“頓修頓悟(とんしゆうとんご)”を主張した6祖慧能であるが,彼によると〈外一切善悪の境界に於いて,心念起らざるを,名づけて坐と為す。内自性を見て動ぜざるを,名づけて禅と為す〉という。かれは身や心を清浄なものとし,これに俗塵の積もらないように努力することを唱えた北宗神秀(じんしゅう,?〜706)に対し,〈悟りにはもともと樹はない,澄んだ鏡もまた台ではない。本来からりとして何もないのだ,どこに塵や埃があろうか。(菩提本と樹無し,明鏡亦た台に非らず,本来無一物,何づれの処にか塵埃有らん)〉と主張して,小乗禅の静寂主義・修定主義を否定した。南宗禅の教義のなかでこの点が最も重要である。いうまでもなく,禅宗では坐禅の実践を重視する。しかし,それが単なる身体の型であってはならないのである。「証道歌」に〈行も亦た禅,坐も亦た禅。語黙動静体安然〉といわれるのもこれである。坐禅が日常生活のなかで行ぜられるものであってはじめて,大乗菩薩道の実践となるのである。いわゆる“祖師禅”の立場が“如来禅”よりも高い理由はここにある。禅宗は“己事(こじ)究明”を目的とする。すなわち生死の一大事を解決し,永遠の生命を生死のなかに体得するのである。その限りでは徹底的に自己のことであり,個人の宗教である。しかし,いったいこのようにして追求される自己とはなにかといえば,それは一般的にいわれる自我ではなく,自我ならざる自己,すなわち“無我”である。無我とは単に自我の否定ではなく,自我と世界がともに包まれる大きな自己を意味している。西田幾多郎(1870〜1945・明治3〜昭和20)はこれを“場所的自己”と表現したのである。“悟り”が単に自己の自覚ではなく,自己と他己を包むような場所の自覚となるとき,“慈悲”と一つになる。このようにして知慧とともに慈悲を強調するところに大乗仏教の一である禅宗の教義の眼目をみなければならない。

【現代と禅宗】鈴木大拙(1870〜1966・明治3〜昭和41)ら禅体験を基礎とする思想家たちによって,禅仏教は今や世界的関心を呼び,“ゼン”は世界の共通語となった。これら禅に対する関心には次のような種類があげられる。[1]宗教的・哲学的関心。禅が説く“殺仏殺祖(せつぶつせっそ)”の絶対無的主体性や,“不立文字(ふりゅうもんじ)・教外別伝(きょうけいべつでん)”の体験第一主義に対して寄せられるキリスト教側からの関心である。[2]文化的関心。世界文化のなかで特異な文化群をなす日本文化が世界的な審美的関心を呼んでいる。水墨画,能楽,茶道,弓道,俳句,禅宗建築,庭園などにみえる禅文化に寄せられる一般的関心である。[3]心理的関心。現代世界を襲っている人間性喪失の不安から生まれる心理的動揺を克服する手段として,坐禅の効用を探ろうとする精神療医学者たちの関心も盛んである。これら幅広い禅への関心を正しいものとさせるための禅僧の役割は重大であろう。

〔参考文献〕奈良康明・西村恵信編『禅宗』(日本仏教基礎講座6)1979,雄山閣

柳田聖山編『禅語録』(世界の名著続3)1974,中央公論社

西谷啓治編『講座禅』全8巻,1967〜68,筑摩書房

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