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●戦国時代(日本) せんごくじだい

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 室町時代末期,国内が戦国大名の台頭により約100年間にわたって争乱が続いた時期をいう。

【戦国時代の始まり】戦国時代がいつから始まるかについて,以前は応仁の乱がおこった1467年(応仁1)からとする考え方が支配的であったが,最近は,応仁の乱を始期とする考え方には否定的で,応仁の乱が一応の結着をみた時期を始期とする考え方が支配的になっている。具体的には,1493年(明応2)の細川政元が将軍足利義稙を追放した出来事をさす。このクーデタのころを境として,各地の守護大名が幕府から離れて独自な動きをするようになり,幕府の権威が急速に失墜していった時期にもあたり,群雄が割拠する戦国時代の開幕にふさわしい出来事であった。もう一つは,北条早雲による伊豆討ち入りを画期とするもので,1491年(延徳3,最近1493年説が提起されている),早雲が幕府の一機関である堀越公方を滅ぼしたことを重視する考え方である。戦国時代は下剋上の時代といわれるように,早雲の伊豆討ち入りは,まさに下剋上を象徴的に示す出来事であった。したがって,現在では,1491〜93年を戦国時代の始まりとみなしているのである。

【戦国時代の時期区分】戦国時代はいくつかの画期によって段階区分がされる。大きく前期と後期の2段階に分ける説があるが,これは1543年(天文12)の鉄砲伝来以前と以後とで分ける考え方である。この場合,戦国の終期は1568年(永禄11)とみなしている。もう一つ,4段階に区分する考え方があり,その場合,第1段階は1491〜93年から鉄砲伝来の1543年であり,この時期の特徴は,ます室町幕府守護体制の崩壊があげられ,守護大名クラスについてみれば,彼らが被官であった守護代や国人領主たちの下剋上によって追い落とされていった時期である。近江の浅井氏とか,安芸の毛利氏とかの台頭がその象徴的出来事であった。第2段階は1544年(天文13)から1560年(永禄3)までの時期で,この段階では旧守護大名勢力と新興大名が急激に交代をしたときで,地域の分極化が進んだ時期である。1560年は,織田信長が桶狭間今川義元を破った年であり,尾張一国をまだ完全に統一してはいなかった信長が,駿河,遠江,三河3カ国の大戦国大名今川氏を倒したことは象徴的であり,時期区分の一つの指標になる。第3段階は1561年(永禄4)から1576年(天正4)までの時期で,この時期はちょうど織田信長の天下統一過程における最も重要だった段階にあたっている。そのため,1576年で切らず,1573年(天正1)の室町幕府の滅亡時期を画期とする説,さらには,一向一揆との対決を中心にしてとらえれば,1580年(天正8)の石山合戦終了時まで下げる考え方もあり,1582(天正10)の本能寺の変における信長の死を第3段階の終期とする考え方もある。ちなみに,1576年(天正4)は安土城の築城開始の年である。第4段階は最終段階で,第3段階の終期を1576年にすれば,1577年(天正5)から1590年(天正18)までを範囲とする。1590年は豊臣秀吉による小田原征伐の年にあたり,この年,関八州の広大な地域に大名領国制を展開していた後北条氏が秀吉に攻め滅ぼされ,いわば最後の戦国大名が姿を消したときであり,この第4段階は,秀吉の天下統一過程という性格をもっている。もっとも,戦国時代の終期を1568年(永禄11)の信長の上洛の年とする説も有力であり,また,1573年(天正元)の室町幕府の滅亡時点に置く考え方も有力である。

【実力主義と合理主義】戦国時代までは権威がものをいう時代であった。ところが,戦国時代は権威よりも実力が優先した。たとえば信長の場合,1568年に足利義昭を擁して上洛に成功したあと,義昭から管領斯波氏の名跡を勧められたが,信長はこれを断っている。信長にとって幕府の管領などというものはまったく無用のものであり,かえって自由な行動を束縛するものと考えたのである。しかも,信長は弾正忠という低い官位のままで,実際上の政治をとりはじめたのである。幕府の将軍,管領といった権威,朝廷における官位という権威を否定することによって,信長の自立が意味をもった。なお,実力主義のちょうど裏がえしの表現になるが,実力がない者は,たとえ主君であっても家臣から排除されるという論理,すなわち,戦国時代のいわば代名詞ともいえそうな下剋上という現象と密接な関係がある。同じ封建制的主従関係でも,江戸時代のような“武士は二君にまみえず”といった君臣道徳の観念は戦国時代においては,主君から恩義が得られなければ,その主君のもとから離脱することは自由であり,謀叛をおこしても“不忠”とののしられるようなことはなかったのである。また逆にいえば,戦国大名たちは,家臣たちに不満をもたれないようにつねに家臣たちに与える恩賞を確保すべく他領侵略に乗り出していった。他領侵略をすれば領土がふえると同時に,家臣たちから下剋上のきっかけを奪いとることにもなる。こうした循環があったからこそ,戦国時代,絶え間のない争乱が引き続いていたのである。なお,戦国時代はもう一つ,合理主義が徹底した時代でもあった。それまでの迷信などが排除され,合理的な考え方が主流となっていったのである。たとえば,出陣の日時や方角など,それまでの兵法では加持,祈祷,占卜などがかなり重視されていたが,戦国武将のなかには,合理主義をつらぬいた者が出てきた。「朝倉孝景条々」の第13条に〈勝つべき合戦,取るべき城攻等の時,吉日を選び,方角を考へて時日を移す事,はなはだ口惜しく候。いかによき日なるとて,大風に船を出し,大勢にひとり向はば,その甲斐有るべからず候。たとひ難所,悪日たりとも,細かに虚実を察して,密々に奇正を整へ,臨機応変して謀を本とせば,必ず勝利を得られるべき事〉とみえる。

【建設の時代】戦国時代は恒常的な戦乱状態のため,田畑は荒らされ,町屋は焼かれ,いかにも破壊の時代であったかの印象を受ける。確かに破壊の連続ではあったが,それまでの時代にはみることのできなかった建設の時代でもあったのである。第1は築城術の進歩により,各地の戦国大名が自己の居城として巨大な城を築いたことで,石垣積みの工法や,空堀,土塁などの構築において技術面での発達がみられたこと。また第2に,鉱山開発が急速に進んだことである。灰吹法とよばれる技術が普及し,それまでとは比較にならないほどの金銀採取が可能になったのはこの時代のことであった。また,築城術,冶金術の進展が全体として土木技術の進展をもたらし,灌漑用水の技術発展につながり,各地において新田開発がみられるようになり,また,大河川を制御し,それまで不可能だった大河川下流域に水田を作ることも可能になったのである。現在各地に残る新田で,戦国大名主導による新田がかなりみられるが,これらはいずれも,戦国時代が単に破壊の時代ではなく,建設の時代であったことを物語っている。また,戦術面でみれば,鉄砲の伝来後,ほんの数年で国産の鉄砲が普及しており,そうした新技術を受容する素地が当時の日本には存在していたという点も重要である。

【文化の地方伝播】もう一つ忘れてならないのが文化面である。それまでの文化というのは京都,奈良を中心にしたものであったが,応仁の乱後,地方の荘園が押領され,公家の生活が成り立たなくなり,彼らは地方に下り戦国大名の保護を受けるようになったりしたが,そのため,中央の文化が地方に伝播するという結果をもたらした。戦国時代の地方文化としては山口の大内文化,駿府の今川文化一乗谷朝倉文化などが有名で,「大内版」とか「駿河版」といった印刷も行われたりしていた。

〔参考文献〕永原慶二監修『戦国大名論集』全18巻,1983〜84,吉川弘文館

杉山博『戦国大名』1965,中央公論社

永原慶二・ジョン=W.ホール・コーゾー=ヤマムラ編『戦国時代』1978,吉川弘文館

小和田哲男『戦国大名』1978,教育社