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●戦国時代(中国) せんごくじだい

アジア 中華人民共和国 BC450 周

 前450ごろ〜前221,東周時代の後半期。春秋時代の末,晋が韓,魏,趙(いわゆる三晋)に分裂したときから,秦の始皇帝が中国全土を統一するときまでをいう。ただし『資治通鑑』は三晋が周王室から諸侯として承認された前403年を戦国時代の開始期と考え,『史記』六国(戦国)年表は,前476年(周暦元王1)から始められているなど,戦国期の始まりには諸説があるが,ここでは三晋が知伯を滅ぼした前453年ごろを一応の目安としておく。戦国とは大国・強国の意で,この時代は七雄と呼ばれる大国が活躍したので戦国時代という。ただしその歴史に関しては諸史料のあいだに矛盾や誤りが多く,個々の年代については諸説がある。戦国七雄とは韓,魏,趙,燕,斉,秦,楚をさす。韓は平陽(のち新鄭)を都として山西省東南部から河南省北部を占めた。魏は安邑(のち大梁)を都とし,陝西省東部,山西省西南部から河南省北部へと発展した。趙は晋陽(のち邯鄲)を都とし,陝西省東北部,山西省中部からやがて山西省北部,河北省東南部へと拡大した。燕は(のち易県)を都とし,河北省北部,遼寧省西南部を領した。斉はリンシ※注1※を都とし,山東省中部,北部から河北省東南部へと発展した。秦は雍(のち咸陽)を都とし,甘粛省東南部,陝西省中部からしだいに東方へと発展した。楚は郢(のち陳,寿春)を都とし,湖北省および湖南省,江西省,安徽省の北部から河南省南部,江蘇省に及んだ。これらの諸侯はいずれも「万乗(乗とは戦車の単位)の国」といわれるものであるが,そのほか「千乗の国」として衛,魯,宋,鄭,中山,越なども存在したが,やがて大国に併呑されていった。周王室もまったく力を失い,西周(前440)と東周(前367・顕王2)に分裂した。

三晋と旧斉の発展】戦国初期に活躍したのは魏の文侯(在位前446〜前397,文侯1〜文侯50)である。文侯は呉記を将として秦をうって河西の地を奪い,東は河北西部の中山国に侵入して一時これを滅ぼした。さらに三晋とともに斉を破り,楚を討ち,次の武侯は大梁を占領した(前391,武侯6)。内政においては郡県制を整えて中央集権につとめ,リカイ※注2※を相として農政(尺地力之教,および法治(「法経」の編集)を強化し,卜子夏田子方らの儒家を師とし,西門豹(都県令),呉記(面河郡守)らを挙用して富国強兵の実をあげた。趙もまた国政を改革して河北に発展し,敬侯は都を邯鄲(河北省邯鄲)に遷し(前386・敬侯1),衛を討って魏と対立した。韓は鄭,宋を攻めて東進し,前375年(哀侯2・康公21)鄭を滅ぼし,都を新鄭に遷した。斉においては春秋後期,田(陳)氏一族が寛政を布いて民心を収攬し,諸貴族を倒して国政の実権を奪い,前391年(康公10)田和が康公を廃して独立,やがて諸侯をして承認された(前386・康公15)。楚は悼公が立って呉記を用い,前4世紀初め,国政改革を断行して,貴族の爵禄世襲を抑え,軍備を整えて湖南から広西方面に領土をひろげたが,悼王が死ぬと貴族の反乱が生じ,呉記は殺害された(前381・悼王21)。

【秦・斉の発展】前4世紀中ごろ,韓の昭侯は申不害を用いて君主専制の官僚政治を行い,斉の威王(在位前357〜前320・威王1〜威王38)も国政を改革し,ソンヒン※注3※を将として軍備を整えた。このころ魏の恵王(在位前370〜前319・恵王1〜恵王後元16)は都を大梁に遷し,富国強兵策を推進して,趙都邯鄲を攻囲したが,趙を助けた斉のソンヒン※注3※の軍に前354年(恵王17・威王4)大敗した(桂陵の戦い)。魏はまた韓を攻めたが再び斉のソンヒン※注3※の軍に馬陵に敗れ(前342・恵王29・威王16),魏将ホウケン※注4※が殺されたという。魏は西方においても秦の攻撃を受けた。このとき秦では孝公(在位前361〜前338・孝公1〜孝公24)が衛鞅の変法政策を採用し,徹底した軍国主義を取って魏を敗り,つぎの恵文王(在位前337〜前311・恵文王1〜意文王初更14)は連衡策の張儀を用いて魏の河西,上郡を奪い河東に進出した。これに対し魏は公孫衍(犀首)の合従策を採用し,楚の懐王(在位前328〜前299・懐王1〜懐王30)を長として秦を脅かし,三晋の軍は秦を攻めたが失敗した(前318)(『史記』は蘇秦合従策という)。こののち,秦は司馬錯の計を用いて巴,蜀を征服し(前316・恵文王初更9),義渠戎を討ち,再び韓,魏を征し,さらに楚を丹陽および藍田に大破した(前312・恵文王初更13)。一方,斉の宣王(在位前319〜前301・宣王1〜宣王19)は,燕の内乱(オウカイ※注5※が子之に禅譲したために生じた乱)を利して,一時燕を征服し,また楚と結んで秦に対抗して強盛を誇り,首都リンシ※注1※は大いに栄えたという。そこで秦の昭王(在位前306〜前251・昭王1〜昭王56)は楚と和し,斉,楚の同盟を破壊した。そのため斉は楚を攻撃して楚軍を垂沙に大破した(前301・宣王19・懐王28)。秦,斉の攻撃に破れた楚の懐王は,秦に抑留され,以後衰えた。このとき屈原は祖国の失政を憂えて自殺したという。このころ斉ではコン※注6※王(在位前301〜前284・コン※注6※王1〜17)の相として孟嘗君,田文が活躍し,秦では樗里涙,甘茂,魏冉らが威を振った。また趙では武霊王(在位前325〜前299・武霊王1〜27)が出て「胡服騎射」の軍事改革を行い,中山を攻めて前296年(恵文王3),滅亡させた。さらに内蒙古にまで攻め入り,北方から秦を脅かしたが,結局内乱によって餓死した(前295・恵文王4)。前3世紀の初めになると,秦の昭王は名将白起を採用して韓,魏を攻め,これを伊闕(河南省洛陽竜門)に破り(前294・昭王13・魏の昭王2・釐王2),山西から河南へと進出した。このころ各国諸侯はすでに王号を称していたが,強盛を誇る秦と斉は一時帝号を称し(前288・昭王19・コン※注6※王13),共同して趙を討とうとした。このときに蘇秦や李兌(奉陽君)が合従策を説いて,斉,趙を約させ,燕,韓,魏とともに秦を攻囲した。斉のコン※注6※正は勢に乗じて宋を滅ぼし(前286・コン※注6※王15・元王偃43),大いに中原に威を振るった。そこで秦の昭王は楚の頃衰王と和し,趙,韓,魏と会し,燕もこれに加えて斉を攻撃した。燕はかつて斉に蹂躙されて以来,斉に服していたが,昭王(在位前311〜前279・昭王元〜33)は国力回復に努力し,楽毅らを用いて反撃の機をうかがっていたので,このときにあたり,楽毅は諸国の兵を率いて斉軍を大破し,首都リンシ※注1※を陥れ,コン※注6※王を追い,斉の70余城を奪った(前284・前283・昭王28〜昭王29)まもなく斉は田単に上がって復興したが(前279・襄王5),昔日の威を失った。

【六国の滅亡】斉の衰退によって,再び秦の東進が始まった。中原の要地定陶を奪い三晋を攻め,さらに白起は楚を討ってエン※注7※(湖北省宣城)をくだし,首都郢を占領したので,楚は都を陳(河南省淮陽)に遷して,鋭鋒を避けた(前278・昭王29・頃襄王21)。このころ趙は武霊王をついだ恵文王(在位前298〜前266・恵文王1〜恵文王33)が,廉頗藺相如趙奢らを用いて斉,魏を攻略し,しばしば秦軍を破った。秦の昭王はハンスイ※注8※を相として“遠交近攻”の策を採用し,しきりに韓を攻め,上党郡(山西南部)を奪おうとした。そこで趙は廉頗(れんぱ)に長平(山西省高平)を守らせ,3年にわたって秦軍と対峙した。しかし廉頗に代わって趙括が将となると,白起の軍はたちまち趙軍を打ち破り,その兵40万余人を生き埋めにした(前260・昭王47・孝成王6)。勢いに乗じた秦軍は趙都邯鄲を囲んだが,抵抗にあい,また魏の信陵君(魏無忌),楚の春申君(黄歇)らも大軍をもって趙を救援したため,秦は大敗した(前257・昭王50・孝成王9)。この戦いのあいだに楚は北進して前256年(考烈王7・頃公18)魯を滅ぼした。長平の戦後も秦は衰えず,西周を奪い,名目的存在であった周王室を滅ぼした。荘襄王(在位前249〜前247,荘襄王1〜3)が立つと,呂不韋を相として,東周を滅ぼし,三晋を攻略した。このとき,魏の信陵君合従策を行って秦軍を河外の地に破り,最後の抵抗をした。前246年(始皇帝1),秦王政(始皇帝)が即位したが,相変わらず呂不韋が実権を握り,魏を討って東郡を置き,衛を附庸として三晋を脅かした。趙のホウ※注4※煖は再び合従策をもって秦にあたろうと試みたが失敗し,楚は秦の攻撃を恐れて都を寿春(安徽省寿県)に遷した。その後,秦では「ロウ※注9※アイ※注10※の乱」を契機に,呂不韋が失脚し,一時「逐客令」が出されたりしたが,間もなく李斯が復活して始皇帝を助け,秦将王翦らが趙を攻め,河北の地を奪ったが,このときは趙将李牧の軍に敗れた(前233・始皇帝14・王遷3)。しかし秦の攻撃は止まず,前230年(始皇帝17・王安9),韓を滅ぼし,前228年(始皇帝19・王遷8)には趙都邯鄲を陥れた。このころ燕の刺客荊軻が始皇を謀殺しようとする事件がおこり,秦軍は燕都を占領し(前226・始皇帝21・王喜29),翌年さらに魏都大梁に入って魏を滅ぼした。前223年(始皇帝24・負芻5),寿春を攻めて楚を滅ぼし,前221年(始皇帝26・王建44),斉を占領して天下を統一した。

【政治制度と変法】戦国時代は,それまでの卿大夫らによる世卿,世禄の制を廃し,俸禄制による官僚を用い,中央集権的領土支配(郡県制)を確立するため,各国において変法運動が行われたときである。中央には相,将軍,御史大夫(これら官名は,国により異なる。たとえば楚では令尹,莫敖,桂国など)以下諸官が設置され,中涓,庶子,舎人,謁者のごとき近侍の官や衛尉,廷尉,内史,小府,尚書府など,すべていわゆる家産的官僚が臣下として形成されていった。地方官としては,郡県制施行に伴い,中央から郡守,県令が任命され,郷や里の父老層を通じて庶民支配が行われた。この官僚制は新興士人層を中心にした新しい君主中心の国家制度を築こうとするものであるため(専制的支配),伝統的宗族貴族とその私的家臣団(私門)に激しく抵抗するものであった。このために諸国に変法の政争が発生した。魏では重農主義(盡地力之教)を以て経済の統制(平擢法)を行うとともに,「法経」六篇をつくって人民の取り締まりを厳にし,富国強兵の実をあげた。楚においても呉起が王族貴族の私的権力を排除し,君主(公)中心の政治を行ったが,十分な効をあげえなかった。韓では申不害が「刑名の論」を唱え,専制的統治の方法として君主の「術」による官僚操従を主張した。とくに変法を実現させて名高いのは秦の商鞅(衛鞅)である。商鞅は重農抑制と刑罰主義(開阡陌什伍制),貴族的特権廃止と軍功主義(二十等爵制)などを強行して,戸籍・賦税の制を整え,度量衡を統一し,県制を布き直轄支配を推進した。商鞅変法の歴史的意味については諸説が存在するが,ともかく軍国主義的な戦国諸侯の官僚政治の側面をよく物語るものである。

【経済の発達と都市の繁栄】この時代は鉄製農具の普及,牛耕や灌漑設備の拡大など農業におけるめざましい技術的発展がみられ,生産力が向上した。近年調査された湖北省大治銅緑山鉱井遺跡は,当時の進んだ鉱山技術を具体的に示し,斉都リンシ※注1※や燕下都易県をはじめ各国大都市には続々と治鉄手工業址が発見されている。また魏の西門豹はショウ※注12※水を引いてギョウ※注13※(河北省磁県)の土田灌漑を行い(『呂氏春秋』にはこれを魏の襄王のときの央起の話とする)秦の李冰は成都の岷江に堤防を築き,水災を防ぐとともに潅漑を行って沃野を開き(都江堰),鄭国は陝西省のケイ※注14※水を引いて大運河による関中平野の灌漑に成功した(鄭国渠)。諸侯はこうした勤農政策によって土地,人民を国家的に支配し,税制を強化し,富国策をはかった。他面,農業の発達は地主層の一般化,貴族官僚層の大土地私有化または君主の公田の家産化を促したため,自治的共同体下の農民組織に動揺がおこり,社会不安を増大させた。農業生産の向上とともに都市の経済的発達も著しく,春秋以来,貴族政治の中核として築かれた都城はその規模をいっそう拡大し,商人や手工業者など庶民の活躍の舞台ともなった。塩,鉄をはじめとする大きな手工業は相変わらず国家の監督下に行われたものが多かったが,かなりの程度民間における生産も進み,巨富を得る者も現れた。とくに商業の発達はめざましく,燕,斉の「刀」,三晋の「布」,周,秦の「円」,楚の「蟻鼻」や「全餅」などの通貨が流通し,都市には「市」が賑わい,「関市の税」が設けられ,大商人はますます交易をひろげた。交通路の発達により,各国首都や交通の要衝(定陶・宛・温・エイ※注15※陽など)は商業都市として発達し,周囲数キロメートルから十数メートルの大土城を築いて,人口十数万人に及ぶものも現れた。現在それら都城址は,つぎつぎに発掘調査が行われ,繁栄の状況が明らかにされつつある。

【社会の変動と任侠の風俗】経済の発達は庶民の生活を豊かにし,国人のなかから新興士人層の活躍が目立った。彼らは従来の宗族的生活の規制を脱して都市の遊民や王公貴族,官人の食客の徒となり,あるいは下級官僚層となった。その多くは任侠的結合と呼ばれる集団をつくり,新しい社会風潮を形成した。この風潮を利用して,支配層も多くの食客を養い,勢力の拡大をはかった。食客達も利禄を求めて諸侯,貴族のあいだに遊説して大いに名声を馳せる者が現れた。このため少年無頼の徒といわれる遊民が増加し,社会の変動も激しくなった。当時の農民層の歴史的位置づけおよび新興官僚層の社会的性格などに関しではさまざまな議論があるが,なお確かな結論をみるにいたってはいない。

【思想と文化】戦国時代は「諸子百家」が活躍して,自由な言論・思想を展開したときであるといわれる。諸子すなわち儒家,道家,墨家,法家,陰陽家,名家,兵家,縦横家などはそれぞれの立場から政治,社会,軍事や自然,道徳などの問題を論じ,あるいは天命や人性の意味を考えた。このため,論理学,外交術,科学技術の分野にも新しい展開がみられた。彼らのなかの有力な学派は,多くの士(弟子)を集めて諸侯に仕え,諸侯もまたこれを優遇し尊んだから,各国の都には,斉の「稷下の学」に代表されるように,多くの学者が集まった。美術工芸の画でも清新の風はいっそう盛んになった。青銅鋳造技術の進歩によって青銅製品(容器,鏡,武器,楽器あるいは燭台や器物の台の装飾など)には多様な形のものがつくられ,金銀銅玉などの象嵌,透し彫り式の文様など精巧流麗な装飾が施された。また器面に貴族たちの饗宴,歌舞,狩猟や戦争などを表す細密な浮彫式の画面が描かれたり,あるいは北方民族文化の影響を受けた動物文様も数多くみうけられる。漆器製品が多くなるのもこのころの特色である。楚の文化の及んだ地域にはとくに見事な漆器(棺,容器,楽器その他装飾品や武具あるいは鎮墓獣など)が出土している。これら華麗な遺物はおもに王公貴族の墓から出土するが,その最も代表的なものが,戦国初期の曽侯乙墓(湖北省随県)と戦国中期の中山王墓(河北省平山県)である。いずれも壮大な王陵で,副葬品も数千点を数え,王公の生活をしのばせるばかりでなく当時の建築技術,武器,車馬具や音楽,美術工芸の具体的状態を物語る。〔参考文献〕「戦国時代の群像」『人物中国の歴史3』1981,集英社

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