●選挙 せんきょ
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選挙とは一般に投票によって特定の地位につく人を決定することである。しかし,投票によらずに,挙手や口頭,あるいは推薦によって決定される場合もある。いずれにしても,世襲制や任命制と異なり,多数の意思により特定の地位につく人を選定することである。こうした選挙は,あらゆる集団や団体などで行われているが,一般に選挙というと,国や地方公共団体の公職に対する選挙をさす。選挙は,近代の議会政治の確立とともに政治の基礎となった。国民の自由な選挙によって議員が選出されることが,代表の原理の要件とされたからである。国民主権の理論からは,直接民主制が最も理想的であるが,実際問題として国民全体で審議機関をつくることは不可能であり,国民投票では十分な審議や多くの議決が期待できない。今日多くの国家が代表民主主義という間接民主制を採用しているのは,このためである。国民投票制は,議会政治を補完する形で採用されるのがふつうである。
【選挙の歴史】選挙は,西暦紀元前の古代ギリシアですでに行われていた。しかし,選挙が行われたのは,ごく少数の公職で,大臣・役人・裁判官など大部分の公職はくじ引きで決定された。これは市民がすべて平等であり,公職の選定にはくじ引きが最も公正であると考えられたからである。そして市民全員が参加する民会を最高の議決機関とする直接民主制が採用された。くじ引きで選出される政治家のチェック機能として,投票によって一定数に達すると追放するといういわばマイナス選挙の制度があった。アテナイ名産の陶器のかけらに名前を書いて投票したので“陶片追放”と呼ばれた。この制度は良い政治家も追放することが多く,必ずしもうまく機能しなかった。全盛期の政治家ペリクレスは,選挙で選ばれた将軍としてアテナイを支配した。
古代ローマにおいて選挙は主要な役割を果たした。官職は選挙によって選任され,出世するには選挙で勝ち進んでいかねばならなかった。候補者ということばは,白く輝くということばが語源で,候補者が目立つように白く輝く衣装を着て遊説したことからきている。選挙で選ばれるためには金をばらまく必要があった。ローマ人は「パンとサーカス(剣闘士の見せ物)をよこせ」と政治家に要求し,大政治家になるためにはこうした莫大な金がかかった。シーザーも遠征先から戦利品をローマに送り込んで人気取りをした。金権選挙の元祖といえる。
中世の封建体制では,選挙はほとんどみられなくなったが,イギリスで近代的議会政治が確立されると,選挙は代表者の選出という重要な機能を果たすようになった。1215年ジョン王が,国王も法に従うというマグナカルタを結び,会議の重要性が高まり議会へと発展していった。1265年シモン=ド=モンフォールの召集した会議が初めて Parliament と呼ばれた。そして1295年エドワード1世が開催した模範議会がイギリス議会主義の起源とされている。しかし,これによってイギリスに議会政治が確立されたとはいえず,国王と議会との戦いがつづけられ,1649年のピューリタン革命と1688年の名誉革命をへて,議会主権といわれるような議会政治が確立された。しかし,選挙権は財産のある男子に限られ,有権者名簿すらつくられていなかった。有権者かそうでないかは,地域のなかで周知の事実であったからである。
1789年フランス革命によって市民が権力を把握し,1791年憲法が制定されたが,一院制の国民議会は間接選挙制で,選挙権は,能動市民とされた一定の直接税を納める満25歳以上の男子に限られた。その後,1848年二月革命によって,フランスで初めて男子普通選挙権が確立された。
イギリスでは産業革命によって,人口の都市への大移動があったにもかかわらず,選挙制度は古い体制がそのまま維持されていた。貴族の個人所有的選挙区や腐敗選挙区が存在し,選挙もひどい腐敗選挙であった。イギリスの代表的な18世紀の画家ホガースは,こうした選挙を鋭く風刺した「選挙」シリーズを残している。こうした状況を背景に,新興階級を中心に選挙制度の改革運動がおこり,1832年大改革法と呼ばれる第1次選挙法改正が成立し,選挙区の再配分と選挙権の拡張がなされた。しかし,選挙権の拡大が不徹底であったため,普通選挙を要求して労働者たちが運動をおこした。人民憲章を掲げたのでチャーチスト運動と呼ばれ,初めての労働者の組織的運動であった。これを契機に,選挙権の拡大と腐敗選挙の浄化の闘いが展開された。1867年第2次選挙法改正,1884年第3次選挙法改正と選挙権の拡大がはかられたが,男子普通選挙権が実現したのは1918年のことであった。これと並行して選挙浄化もすすめられ,1841年買収法,1854年腐敗行為防止法,1883年腐敗および違法行為防止法と次々と厳しい対策が打ち出された。1872年に秘密投票法が成立し,大きな効果をあげた。イギリスは,このように長い年月をかけて腐敗選挙の浄化に成功したが,その要因は,選挙権の拡大による有権者の急増と,議員自らが立ち上がって選挙違反に厳しい罰則を課したことにあった。今日のイギリスは,理想選挙のモデルとなっている。
一方,婦人参政権獲得運動も始まり,とくにパンカースト婦人が1903年に婦人社会政治連盟を結成してから活発化し,1912年からは過激な行動にまで発展し,暴力行為や入獄を繰り返し,ハンストまで行った。1918年に初めて戸主または戸主夫人の30歳以上の婦人に参政権が与えられ,1928年ようやく完全な婦人参政権が実現した。アメリカで婦人参政権が実現したのは,1920年のことであった。婦人参政権が世界に普及したのは,第二次世界大戦後のことであった。
選挙制度の大問題の一つは,選挙区制である。19世紀に比例代表制が考案され,第一次世界大戦後にヨーロッパ諸国が競って採用するようになったことから,英米や社会主義国の小選挙区制と欧州大陸諸国の比例代表制が2大潮流となった。日本は独特の中選挙区制を採用している。小選挙区制は,多数代表主義で死票が多く,大政党に不当に有利になるという問題点があるが,2大政党制を維持するには適した制度である。比例代表制は,有権者の意思を正確に議席に反映させ,死票の少ない制度であるが,小党分立して政治が不安定になるなどの問題点がある。西ドイツは,比例代表制と小選挙区制の混合方式を採り,5%条項で小党を排除している。このように現在は理想的な選挙制度が存在せず,どの選挙制度を採るかで,各政党に有利不利が生じるため,その選択は大きな政治問題となる。たとえば,イタリアのファシスト政権は,選挙制度の改革によって与党勢力の安定多数を確保したし,フランスでは,与党に有利な選挙制度の改革がかなり露骨に行われた。
【日本の選挙の歴史】日本に近代的な選挙制度が導入されたのは,明治以後欧米の政治制度が導入されたことによるが,江戸時代にも,投票(入札)による選挙が一部において村役人や町役人の選任のため採用されていた。長崎の各町は,乙名が町政を治め,組頭がそれを助ける制度であったが,乙名は世襲で奉行から任命され,組頭は町民のなかから入札によって選ばれた。当時の入札では,選挙運動のようなことは一切禁止されていたので,投票を依頼したものが罰せられた記録が長崎奉行犯科帳に残っている。
幕末のころから坂本龍馬の『船中八策』や福沢諭吉の『西洋事情』にみられるように,欧米の議会制や選挙制についての知識が少しずつ知られるようになった。
明治維新の五箇条の御誓文は〈広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ〉と示され,その具体策として憲法にあたる「政体書」が起草され,二院政の議政官や官吏公選制が規定された。首相にあたる輔相(ほしょう)をはじめ大臣・高級官吏を選挙で選ぶという画期的制度が1869年(明治2)5月19日に1度だけであるが,天皇臨席のもとで全員礼服を着用して厳粛に行われた。
1871年に廃藩置県が行われ,旧藩主に代わって新進気鋭の地方官が配置されるようになると,欧米流の民会を試みる地方がでてきた。とくに兵庫県令の神田孝平は著名な外国通であり,兵庫県の「民会議事章程略」が「日新眞事志」に紹介され1873年12月19日,選挙制を含めた民会制定のモデル規則となった。また,名主や年寄が廃止され,戸長が置かれることになり,その選任は従来の任命に代わって投票による場合が多くなった。このように明治初期に地方レベルで選挙制の導入が試みられた。
1878年7月に大久保利通の建議にもとづく三新法と呼ばれる郡区町村編成法・府県会規則・地方税規則によって地方制度が整備された。町村には戸長が置かれたが,その選任方法についてはなるべく公選でということで,選挙制は規定されず町村に任せられた。府県会規則は,そのなかに議員の選挙規則が規定され,初の全国的公的選挙制度の成立といえる。また,初めて“選挙”という用語が法的に使用された。
1889年大日本帝国憲法が制定され,1890年から帝国議会が開設されることになり,日本で初めて国民参政の道が開かれた。これにより憲法とともに衆議院議員選挙法が公布された(1889年)。選挙権要件は,満25歳以上の男子で直接国税15円以上納めているものと厳しく,人口の1%である45万人にすぎなかった。当時の税金は地租が大部分であったため,有権者の多くは地主層で,地主議会といわれるほどであった。議員定数は300人,小選挙区・記名投票制であった。第1回総選挙は,1890年7月1日に執行され,投票率は94%の高率で,腐敗行為や選挙干渉もそれほど目立たずまずまずの選挙であった。選挙結果は民党と呼ばれた野党が多数を占め,議会対政府の対立となった。
帝国議会は,政府と民党の対立が深まり,予算案をめぐって激突し,衆議院が修正案を議決したことから,松方内閣は1891年12月に衆議院を解散した。総選挙にあたり品川内相は,内務次官白根専一を担当者とし,官憲の刀で選挙に干渉し民党を弾圧した。このため全国各地で衝突がおこり,多数の死者や負傷者が出た。これを選挙大干渉という。選挙の結果は干渉にもかかわらず民党が勝ち,批判の前に品川内相らは辞職した。買収などの腐敗行為も横行し,第2回総選挙から干渉と腐敗という歪んだ選挙が始まってしまった。
選挙権の納税要件が,一般に予想された10円より高い15円と決められたことは,当初から選挙権拡大の動きをひきおこした。議会ごとに選挙法改正案が提出され,1892年には大井憲太郎などを中心に普通選挙同盟も結成され,選挙権拡大への運動が広がった。1900年選挙法が改正され,納税要件が10円に引き下げられ,選挙区が大選挙区制となり(市は独立の選挙区),秘密投票制となった。
大正期に入ると,護憲連動や第一次世界大戦後の先進諸国の普通選挙実現などの影響で普選運動が盛り上がり,大正デモクラシーと呼ばれる風潮が巻きおこった。尾崎行雄・犬養毅らがその先頭に立った。こうした社会背景のなかで平民宰相といわれた原敬首相は,1919年(大正8)選挙法を改正し,納税要件を3円に引き下げるとともに,小選挙区制へ改革した。1924年,総選挙で普通選挙を公約した護憲3派が勝利を収め,加藤高明内閣のもとで1925年普通選挙法が成立した。満25歳以上の男子に選挙権が与えられ,納税要件が撤廃された。しかし,貧困により救助・扶助を受けている者,一定の住居をもたない者は除外され,女子もいまだ政治能力がないということで参政権は与えられなかった。選挙区制は,世界でも類例がない中選挙区制(大選挙区単記非移譲式投票制)が採用された。選挙運動や選挙費用について規制が強化され,取り締まりのための治安維持法が制定された。
一方,婦人参政権を求める動きも大正期になって欧米の影響を受け活発化した。すでに明治期から岸田俊子・景山英子らが政治的に活動したり,「青踏」のような女性の目覚めの動きがみられたが,1919年平塚雷鳥・市川房枝・奥むめおらが「新婦人協会」を設立して,婦人参政権獲得運動を展開した。1923年には婦人参政同盟が結成され,1925年には婦選三案が衆議院に提出されるなど運動も活発化した。その後戦時色の強まるなかで,大日本婦人会など新体制運動に組み込まれてしまった。
普通選挙の実現と腐敗選挙の続発は,有権者教育や選挙浄化運動の必要性を感じさせ,後藤新平は「政治の倫理化運動」を提唱,田沢義鋪は「選挙粛正運動」を提唱するなどの動きが出た。1928年(昭和3)の初の普通選挙は,選挙干渉と選挙腐敗が激しく,国民の批判が高まった。このため選挙粛正の気運が盛り上がり,選挙革正審議会が設置され,その答申にもとづき1935年,選挙粛正委員会令が公布され,官民協力の形で選挙粛正運動が全国的に展開された。
満州事変から日中戦争へと戦争が拡大し,戦時色が強まるなかで,政党が解体解散させられ,1935年10月大政翼賛会が発足した。政府は,戸主と兵役の義務終了者のみに選挙権を与えるという選挙法改正を企図していたが,実現まですすめられなかった。東条内閣は,前例のなかった衆議院議員の任期1年間延長を断行し,新しい体制での選挙の方策を模索した。結局選挙法改正は間に合わず,翼賛政治会が候補者を推薦し,その推薦候補を町内会など地域の末端組織までも動かして推薦運動(実質的選挙運動)をさせるという翼賛選挙に踏み切った。推薦候補以外は自由候補と呼び(当時自由には反体制の意味があった),陰に陽に妨害・干渉が加えられた。1942年4月の総選挙では,推薦候補が8割以上当選し,翼賛議会が形成された。
1945年8月ポツダム宣言の受諾により終戦を迎えた日本は,宣言の要請する民主化に取り組んだが,その第一歩として婦人参政権がとり上げられ,1945年12月の選挙法改正で,満20歳以上の男女に同一条件で選挙権が与えられ,完全普通選挙制が実現した。選挙区制は大選挙区制限連記制が採用された。この改正法による戦後第1回総選挙が,1946年4月10日執行され,婦人が史上初めて参政権を行使し,39名の婦人議員が誕生した。1946年11月3日新憲法が公布され,戦後日本の新しい体制が確立された。華族制度の廃止により貴族院に代わる第二院として,新たに参議院が設置された。憲法では国会議員は公選によると定められているので,衆議院と異なる特色をもった代表を選出する方法が求められ,全国区と地方区の2本立てや被選挙資格を満30歳以上にするなどが規定された参議院議員選挙法が1947年2月に公布され,同年4月20日第1回参議院議員選挙が行われ,文化人など異色の議員が選出された。また,同年4月には初の統一地方選挙も行われた。戦後第1回総選挙で用いられた大選挙区制限連記制は,異党派投票やアベック投票などの批判があったが,1947年3月,会期末の国会に突如中選挙区制への改正案が提出され,野党の反対による乱闘国会のなかで成立した。これ以後,鳩山内閣のときの小選挙区制への改正の動き,田中内閣のときの小選挙区比例代表制組み合わせ案への改正の動きがあったが,いずれも野党の激しい反対で実現しなかった。1950年,それまで衆議院・参議院・地方選挙が別々の法律で規定されていたが,公職選挙法に一体化された。
参議院の全国区制については,かねてから選挙区が広すぎる,金がかかりすぎる,候補者を選ぶのが難しいなどの批判があった。これに対し多くの改革案が出されていたが,自民党が拘束名簿式比例代表制案に党議をまとめ,社会党も同趣旨の案をまとめたので実現の可能性が高まった。1982年国会の会期を94日間という異常な長期延長を行い,反対を押さえて改正案が成立し,日本に初めて比例代表制が導入された。1983年6月,参院選で史上初めて政党に投票する拘束名簿式比例代表制の選挙が行われ,予想以上にミニ新政党が健闘した。
【選挙制度の問題点】日本に近代的選挙制度が導入されてすでに100年になる。このあいだ,欧米の制度を摂取しながらも,独自の選挙制度を発達させてきた。同時に,多くの弊害や問題点をも派生させている。
その第1は,中選挙区制である。中選挙区制は,わが国独特の用語で,学問的に正確にいうと大選挙区単記非移譲式投票制という。この中選挙区制は,1925年の普通選挙法以来半世紀にわたって(戦後1度だけ大選挙区制限連記制)行われているため,日本の選挙制度として定着しつつある。普通選挙法の提案理由で,政府は大小選挙区制の経験から,両者の長所をとってその短所を除き中選挙区制を採用したと説明した。しかし,そのように理想的にはいかず,同士打ち現象を生み出し,選挙を個人本位とし,金権選挙・腐敗選挙・派閥選挙などの悪弊を生み出す大きな要因とされている。中選挙区制が,こうした問題点を内包しながら,長期にわたって維持されてきたのは,何よりもその代案に政治結着がつけられないという事情による。選挙区制は,各政党に有利不利を生じさせるため,最大の政治問題化する。
第2は,定数是正問題である。戦後の日本は,戦争で地方に拡散していた人口が,経済復興・高度経済成長によって,民族大移動のような人口流動が行われ,人口を基準にした定数は大きなアンバランスを生じさせることになった。1963年と1975年の2度,19名と20名の増員という形で定数是正が行われたが,減員を行わないため抜本的な解決とならず問題を残している。1976年4月,最高裁は初めて最高と最低が5倍の格差になっている1票の重みの不平等について違憲判決を下した。その後,高裁や最高裁で違憲判決が出され,定数是正は緊急の課題となっている。定数是正問題は,衆議院のみでなく,参議院地方区や東京都議会など地方議会でも問題化している。
第3は,腐敗選挙の浄化の問題である。戦前の選挙粛正運動,戦後の公明選挙運動・明るい選挙運動の名のもとにつづけられてきたが,いぜんとして買収供応などの悪質な選挙違反が後を絶たない。後援会活動に名を借りた違反すれすれの事前運動も,選挙に金がかかる要因となっている。これが汚職事件などに結びついている。選挙浄化達成のためには,有権者の政治意識の高揚をはかることが必要であるが,同時にはっきり禍根を絶つに足る厳しい罰則や連座制など,ザル法化を許さない選挙法に抜本的に改正しなければならない。
第4は選挙運動の規制の問題である。現行の公職選挙法は,“べからず選挙法”といわれるほど,選挙運動をがんじがらめに規制している。選挙運動の原則は自由でなければならず,欧米では規制が例外的であるが,わが国では,公正の名のもとに不当に自由が圧殺されてしまっている。世界に類例をみない戸別訪問禁止・事前運動の禁止・厳しい文書図画の制限などは,当選するために必要な選挙運動の規制を意味し,選挙法を事実上ザル法化し,いたずらに形式犯を増大させ,日本の選挙を陰惨なものにしている。
第5は選挙の公営化の問題である。選挙法は,選挙運動を規制する一方で,その反対給付として選挙の公営化を行っている。選挙運動規制の厳しさとともに,公営化は世界でも最もすすんでいるといえる。これは多額の国費が支出されていることを意味する。この公営選挙が,その目的通り金のかからぬ公正な選挙を実現しているのであれば問題はない。しかるに実態は選挙の公営化が,単に選挙費用の国費による上乗せに終わり,ときには悪用すらされている。こうした実効をあげていない現状では,選挙公営のあり方を再検討する必要がある。
その他には,選挙年齢の引き下げの問題がある。1960年代から70年代にかけて,欧米諸国で選挙権年齢の18歳への引き下げの動きがおきた。日本ではいまだこうした気運は盛り上がっていないが,早晩検討しなければならない問題であろう。
〔参考文献〕水木惣太郎『選挙制度論』1967,有信堂
阪上順夫『日本選挙制度論』1972,政治広報センター
小関・阪上・山本編『選挙法全書』1975,政治広報センター
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