●全アフリカ人民会議 ぜんアフリカじんみんかいぎ
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1958年12月に独立して間もない西アフリカのガーナにおいて,当時まだ独立していなかったアフリカ全域の植民地からの,政党・労働組合などの団体の代表者を集めて開かれた人民会議。いわゆるパン=アフリカニズムの運動を基盤として,サハラ以南のアフリカにおいて,独立運動によって最初に達成された独立国ガーナで,25の国や植民地から62の民族主義団体の代表が結集した点に,アフリカ史の重要な転換期を象徴する会議としての意義をもっていた。1957年3月に独立したガーナの首相エンクルマは,ロンドンで開かれたイギリス連邦首脳会議に出席したとき,かつてパン=アフリカニズム運動の師でもあり同志であった西インド出身のジョージ=パドモアに再会し,独立ガーナの「アフリカ問題庁」の責任者になって欲しいと説得し,パドモアは1957年11月にガーナに着任した。エンクルマ首相とパドモアは,1958年4月にアフリカ独立諸国会議を開いたが,当時まだアフリカに独立国は少なく,政府レベルでの外交的な国際会議を開いても,アフリカにおける植民地解放には大きい推進力は生まれないことは明らかであった。そこでエンクルマとパドモアは,アフリカ各植民地の民族主義運動の代表をガーナに集めて,アフリカにおける非植民地化の要求を一挙に強めることこそ,パン=アフリカニズムの目的に合致するものであるという点において意見の一致をみた。しかし,当時アフリカのフランス植民地の多くでは,まだ独立運動はまったく発展しておらず,エンクルマ・パドモアのいわばイギリス系パン=アフリカニズムには,好感をもたない政治団体も少なくなかった。そんな状況のなかでフランス領ギニアにおいて,フランス第五共和国憲法に関する住民投票で,「ノン」票が圧倒的多数を占めた結果,ギニアは1958年1月にギニア共和国として独立した。その大統領に選ばれたギニア民主党のセクー=トウンは,エンクルマのパン=アフリカニズムの協力者であったため,ギニア独立後間もなく「ギニア−ガーナ連邦」の結成が宣言され,それがイギリス系とフランス糸のパン=アフリカニズムを,団結させる中核の役割を演ずることになった。こうして1958年12月5〜12日にガーナのアクラで開かれた全アフリカ人民会議には,フランス・ベルギー・ポルトガルなどの植民地における政党や労働組合の代表も出席し,イギリス植民地の政党や労働組合の代表とともに,非植民地化を全アフリカ的な規模で促進することを誓い合った。この全アフリカ人民会議に出席した各植民地の指導者の多くは,その後1960年以後に独立した国の首脳となった。全アフリカ人民会議は第2回はチュニジアにおいて,1960年1月に,第3回はカイロにおいて1960年3月に開催された。そして一応その歴史的役割を終えた。1963年以後はアフリカ統一機構が成立して,全アフリカ人民会議の機能を政府レベルで引き継ぐ形になった。
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