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●セレウコス朝 セレウコスちょう

BC312 

 前312〜前63 アレクサンドロスの将軍セレウコスセレウコス1世)が建てたヘレニズム王朝。シリア王国とも呼ばれる。ローマ帝国の将軍ポンペイウスにより滅ぼされるまでつづいた。

【歴史】アレクサンドロス没後,その部将たちが数十年にわたり抗争した結果,アレクサンドロス帝国はマケドニアのアンティゴノス朝,エジプトを中心とするプトレマイオス朝,シリアとイランを中心とするセレウコス朝に分裂した。もとバビロニア総督であったセレウコス1世は,インド西部・メソポタミア・シリア・小アジアにわたる広大な地域を領有した。彼とその子アンティオコス1世は,この大領土の各地に多数のギリシア式都市を建設し,マケドニア人・ギリシア人をここに移住させた。これは,アレクサンドロスによって始められた都市建設政策を継承したものであり,北シリアのアンティオキア・チグリス川畔のセレウキアなどの都市が建設された。そしてこれらの都市を通じて,ギリシア文明が領土の各地に伝播し,かつギリシア文化の東漸に大きな役割を果たした。その後インド西部は,マウリヤ朝チャンドラグプタに奪われ,セレウコス朝はこれを回復できなかった。エジプトのプトレマイオス朝とも,南シリア・フェニキア・パレスチナをめぐり,長期にわたって対立をつづけ,断続的な戦いとなったシリア戦争(前280〜前217)において,セレウコス朝は終始圧倒された。前3世紀中ごろからは,小アジアのペルガモン・黒海沿岸のビテュニア・ポントス・内陸のカッパドキアセレウコス朝から離反し,東方でもパルティア・バクトリアなどが独立した。また王朝内部でも内紛がおこり,セレウコス朝の勢力はしだいに衰えていった。アンティオコス3世時代には,バクトリア・パルティアセレウコス朝の主権を承認させ,エジプトをも破って南シリア・フェニキア・パレスチナを支配した。しかし前189年,セレウコス朝はローマ帝国と戦って敗北し,ペルガモン王国に小アジアを割譲し,パレスチナも離反した。アンティオコス4世時代,エジプトを破ったこともあるが,ローマ帝国の政治的干渉を受けた。また,パレスチナにギリシア的な文化と生活様式を強制したため,ユダヤ人の反撃を受けた。セレウコス朝は以後,王位継承をめぐる抗争によって政治が乱れ,パルティアの西進も受けた結果,メソポタミアを失い前63年,ローマ帝国の軍隊によって滅ぼされた。

【社会と文化】セレウコス朝は,広大な領土とそこに住む多くの民族を支配するため,都市建設政策をすすめた。しかし,行政制度はペルシアの制度を踏襲した。マケドニア人・ギリシア人の住民と原住民を含めて,都市や豪族に対しては自治を認め,都市以外の地に居住する住民に対しては,民族ごとにいくつかの総督領,すなわちサトラッペィアを編成して,サトラップ(総督)に支配させた。軍事上の要地には,王に直属するストラテゴス(将軍)が派遣されて統治に当たった。また王は「生きた法」として君臨し,貴族が王を支えた。そして,マケドニア人・ギリシア人の移住した都市が,国家支配における細胞の役割を果たした。しかし,国家財政は原住農民の地租に負っており,社会的・経済的基盤は原住民に置かれていた。ところで,都市には広場・取引場・劇場・体育館・浴場,その他の公共建造物が建てられ,そこではギリシア語が使用された。商人が活動し交易が活発になった。アテナイ貨幣を標準とした国際通貨も流通し,地中海・カスピ海・ペルシア湾・インド洋にわたる海上貿易が発展した。また都市には,学術研究所や図書館が設けられ,各地から学者や芸術家が招かれて古典学・歴史学・地理学・伝記学などの人文科学,数学・物理学・天文学・医学などの自然科学が発達した。知性高く合理主義精神にもとづくギリシア文明は,都市を中心にヘレニズム文化の形成に大きな影響を及ぼした。

〔参考文献〕A.トインビー,秀村欣二・清水昭次訳『ヘレニズム』1961,紀伊国屋書店

前嶋信次編『西アジア史』世界各国史11,1972,山川出版社

小玉新次郎『西アジアの歴史』新書東洋史9,1977,講談社