●セルジューク朝 セルジュークちょう
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1037〜1157 11〜12世紀に西アジアに栄えたトルコ系の王朝。オグーズ=トルクレリと呼ばれる古トルコ族の一分派セルジューク(セルチュク)族が建てた王朝で,その名は始祖セルジュークの名にちなむ。【歴史】10世紀の末,この部族は族長セルジュークに率いられて,アラル海北方から南下し,シル=ダリヤ河口のジェンドに移住してイスラームに改宗した。そのころ,ソグディアナ地方にはイラン系のサーマン朝がトルコ系のカラハン朝に苦しめられていたが,セルジュークはサーマン朝を助けた。しかしサーマン朝が打倒されると,カラハン朝と好みを結び,ガズナ朝とも同盟して力を伸ばした。その子ヤブグー=イスライールはカラハン朝のアリ=テギンに従ってソグディアナの征服に協力し,やがてアリが没すると独立した。その後その甥トゥグリル=ベク(1037〜63)が族長となり,1037年,ホラサーンの要衝,シャプールに無血入城した。やがてガズナ朝はセルジューク朝を討つため進軍してきたが,トゥグリル=ベクは1040年3月,メルブ南方約65kmのダンダーナカーンで迎撃し,これに決定的な勝利を収めて撃退した。その結果,セルジューク朝は全ホラサーンの支配権を握った。その後もトゥグリル=ベクはジュルジャーン・タバリスタン・コヒスターン・ジバールなどを領有し,さらにホラズム・アゼルバイジャン・イラクなどを征服した。トゥグリルはしだいに南下してイラン地方を支配し,レイやイスパハンに都を置き,公正な支配者として名声が高くなった。そこで1055年,トゥグリル=ベクはアッバース朝カリフの招請を受け,バグダードに入城した。彼はシーア派のブワイフ朝を追放し,カリフから史上始めて世俗的権力者としてスルタンの称号を受け,東方イスラーム世界における支配者として公認された。セルジューク朝の進出が13世紀のモンゴルの侵入と異なり,各地で破壊と混乱を伴わなかったのは,早くからイスラームに改宗し,「信仰の擁護者」として進出したためといわれる。次のアルプ=アルスラーン(1063〜72)は国家体制を整え,シリア・パレスチナ地方を征服し,さらにエジプトのファーティマ朝を討ち,シルクーン・グルジアに遠征した。1071年には東部アナトリアに入り,ビザンツ皇帝ロマヌス=ダイオゲネス(1068〜71)をヴァン湖北西マンジカルトで破り,ビザンツ帝国の勢力をこの地方から追放した。これによってトルコ族はようやく東地中海・アナトリア方面に進出したわけだが,聖地イェルサレムの占領はやがて十字軍をひきよせる遠因となった。次の第3代スルタン,マリク=シャー(1072〜92)は,名宰相ニザーム=アルムルクの協力により,この王朝の全盛期を現出した。すなわち彼は東はフェルガーナから西はシリア・エジプトに達し,北はホラズムから南はペルシア湾に達する大版図を形成した。さらにイエメンやバフラインに遠征軍を派遣した。とくに宰相ニザーム=アルムルクが軍事・内治に示した力は大きかった。しかしマリク=シャーの晩年には,暗殺教団イスマイリ派の跳梁やトゥルカン=ハトゥンの干渉などで弱体化し,ニザーム=アムルクの暗殺とマリク=シャーの死で,大セルジューク朝の統一は崩壊した。すなわちマリク=シャーの没後,王族間の内戦によって中央集権は弱体化し,イクター(スルタンの分封地)保有者の世襲・独立化が強くなった。マリク=シャーの長子バルキヤールクと末子マフムード・教父トゥトゥシュと次子ムハンマドらは激しく争い,分製を促進した。セルジューク朝の国土は古くから王族(マリク)間で分割されており,スルタン位継承の内紛も少なくなかった。そしてイラン・イラク・シリア地方を支配した大セルジューク朝歴代のスルタンは,西方アナトリアに進出する気力を失っていた。新たにトランスオキシアナから流入してきたトゥルクメンや反乱の蜂起に失敗した王族らが,西方に進出してルーム=セルジューク朝(1077〜1307)を建てた。アリク=シャー没後の混乱は,第3子サンジャルがスルタン位につくことにより鎮静し,王朝の再統一がなされた。しかしその後,サンジャルはカラ=キタイ(西遼)と戦ってトランスオキシアナを失い(1141),シリア・アゼルバイジャン・ジャジーラではアター=ベクたちが独立し,1153年には遊牧トルコ族であるオグズの反乱を鎮圧しようとして捕えられた。サンジャルは4年間の抑留ののち脱出したが,すでにスルタンの権威は地に落ち,翌1157年に没したので,王朝も混乱のうちに滅んだ。その後この王朝は東方ホラサーン地方はフワーリズム=シャーの支配下に入り,西方アナトリアにはルーム=セルジューク朝が残り,そのほかの地域にはアター=ベクたちの建てた小王朝がしばらくつづいた。イランのゲルマンを中心とするゲルマン=セルジューク朝(1041〜1186),小アジアに進出したルーム=セルジューク朝(1077〜1307),シリアとクルディスターンを中心にシリア=セルジューク朝(1078〜1117),イラクを中心にイラク=セルジューク朝(1117〜94)などである。
【政治・経済】セルジューク朝の官僚機構はアラブ・イラン的,軍事組織はトルコ的で,軍事的封建制国家を形成した。官僚組織の組織者は宰相ニザーム=アルムルクで,概要はその著『シャーサト・ナーマ(政治の書)』に示されている。それによるとこの時代にワジール(大臣)は前代より強い権威をもち,財政・行政・司法・宗務の各ディーワーンを掌握した。地方行政はアミール(地方知事)の下に中央の行政組織を小規模にした組織が形成された。これらの上に君臨したのがスルタンで,それは宗教上の名目的な権威者であるカリフに対し,実質上かつ軍事上の権威者であった。セルジューク朝の強さは軍事力によるものであったから,軍団が強大なときは王朝は版図を拡大して繁栄し,軍団が弱体化すると衰退した。軍団はスルタンに直属するものと,アミールに所属するものがあり,いざ戦闘開始のときには,スルタンから各アミールに命令が下り,軍団を形成した。アミールには軍団維持のためにイクターと呼ばれる封土が分与された。アミールはイクターから税を徴収したが,住民の身柄・私財・妻子を自由にすることはできなかった。軍隊の構成者は初期には遊牧のトゥルクメンだったが,やがてトルコ人・チェルケス人・スラブ人・ギリシア人・クルド人らいわゆる白人奴隷マムルークが中心となり,アミールの大部分もマムルーク出身者によって占められた。彼らは地方総督(アミール)・軍団の司令官・王子の養育者(アター=ベク)となり大イクターの保有者となった。彼らはマリク=シャー没後の混乱・内紛に乗じ,イクタの世襲・独立化の傾向を強め,セルジューク朝分裂の要因となった。
【文化】セルジューク朝はイランの伝説をイスラーム化し,独特なスンニー文化を開花させた。とくにアルプ=アルスラーンからマリク=シャーの治世にかけては,多くのメドレセ・ワクフ(宗教喜捨財団)・図書館がつくられ,アミールたちも各地に図書館・病院・キャラバン・サライ等を建設した。宮廷ではペルシア語が使われ,ペルシア文学・イスラーム諸学の黄金時代が現出した。詩人としてはオマル=ハイヤーム・アンワリー・ハーカーニー・ニザーミーらが,神学者としてはガザーリーが名高い。トルコ語もしだいに普及し,1073/74年,カシュガリーはバグダードで『チュルク語辞典』を著した。ニザーム=アルムルクが創設したニザーミーヤ学院はバグダード以外の地にも建てられ,スンニ派神学・法学の振興と人材養成の機関となった。