●セポイの反乱 セポイのはんらん
ヨーロッパ 英国 AD
1857年インドでおこった反イギリス大反乱。イギリス東インド会社に傭われていたインド人兵士(シパーヒー,日本ではセポイと訛った)が,反乱の火つけ役を演じたところからこう呼ばれる。ただし,この反乱はシパーヒーのみの反乱でなく,ムガル皇帝,マラータ同盟の宰相の末裔ジャーンシー王国など旧地方権力者をはじめ,地方の大地主・農民・都市の宗教的指導者などをも含めたインド民族全体を巻き込む闘争であった。したがって,この呼び名はふさわしくないとする見方が現在のインド・パキスタンでは有力である。反イギリス独立闘争の第1歩であるとして,第1次独立戦争という呼び名や,インド大反乱という名称の方が適当であろう。【原因】イギリス東インド会社がインドに主権を獲得するのは,1757年のプラッシーの戦い以降である。それ以後は,インドで内部崩壊にむかっていたムガル帝国内の不統一を利用して旧支配階層を各個撃破し,19世紀半ばには,イギリスのインド支配はほぼ完成に近づいていた。この支配の確立を助けたのは,実はインド人の傭兵(シパーヒー)であった。彼らは高いカーストのヒンドゥー教徒か,イスラーム教徒の上層で,知的で有能であったため,1757年の初採用以来,イギリスはついに兵力の5分の4を彼らに頼るにいたった。しかし支配が完成に近づき,兵力はしだいに不用になりつつあり,削減か彼らよりもっと下層の人々を悪条件で雇傭する企てが目前にあった。ちょうど,1856年には,新しいエンフィールド銃がインドに導入され,その弾丸の装填には火薬包の牛脂や豚脂の塗ってある油紙の端を口で噛みきってやらねばならなかった。ところが牛は,ヒンドゥー教徒にとって聖であり,豚はイスラーム教徒にとって穢であった。このため,シパーヒーが新銃の使用を拒否したのが反乱の発端である。原因としてはこのほかに王に嫡子のないときは,その王国をイギリスに併合するという「失権政策」,失政を理由に行ったアワド王国の併合,新しい土地制の導入による旧来の地主層の没落,イギリス兵とインド兵との差別,産業革命以後の商品の波によるインド手工業の没落,キリスト教の活発な活動によるヒンドゥー教徒・イスラーム教徒の危機意識,などがあげられる。
【経過】1857年5月10日,北インド最大の軍事基地で反乱したシパーヒーは翌日デリーにすすみ,形骸化していたムガル皇帝バハートゥル=シャー2世の復権を宣言した。これにより戦いは,ムガル帝国対イギリスの色彩を帯びて2カ月のあいだに,アワト・ロヒルカントをはじめ,北部・中央インドにひろがった。各地に置かれたイギリスの軍事基地では,シパーヒーは一様に反乱してはデリーに進軍してきた。カーンプルでは,マラータの宰相の末裔ナー=ナー=サーヒブがペーシュワー(マラータ)を宣言して反乱した。ラクナウでは,旧アワド王国の王妃ハズラト=マハルが旧王の子を擁立して,シパーヒーとともに立ち上がった。中央インドに近い旧ジャーンシー王国では,故王の妃ラクシュミー=バーイーが立ち上がり,果敢な戦いを繰りひろげた。これらとともに,都市では宗教的指導者が民衆を指揮して蜂起し,また農村では,大地主が反乱の側についたアワド地方や中小の在村地主が,積極的に反乱を支持した北西州の例などがある。このようにほぼインドの全階層にわたり反乱の参加がみられた。中心地デリーでは,シパーヒーは行政会議をつくり,兵士・市民の手になる反乱政権を一時的に実現したが,最終的には絶えざる補給線をもったイギリスに敗れた。1857年9月にデリーが陥落すると,ムガル皇帝は降伏し,裁判ののち,ラングーンに流されたまま1862年に死んだ。ジャーンシーやラクナウは翌年までもちこたえたが,ラクシュミー=バーイーは1858年6月,反乱のなかで最も勇敢で有能な戦士の一人として死んだ。ナー=ナー=サーヒブはネパールに逃れ,最後の消息はわかっていない。大反乱の結果,その責を負う形で統治権は東インド会社からイギリス国王に移った。いわゆるイギリス領インドが1858年から始まるのである。
〔参考文献〕鈴木正四『アジア民族革命の研究』青木書店
長崎暢子『インド大反乱』1981,中公新書