●瀬戸焼 せとやき
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愛知県瀬戸地方で,中世以降に生産された陶磁器の総称。広義には,岐阜県東美濃地方西部で生産されている美濃焼を含めることもあるが,地域的に接する両者は,密接に関係しつつも歴史的には独自の展開をしており,厳密には区別する必要がある。瀬戸窯は,いわゆる「六古窯(瀬戸・常滑・越前・信楽・丹波・備前)」の一つで,現在も日本陶磁器生産の中心的存在である。【古瀬戸の成立と展開】瀬戸で生産された陶器のうち,中世の製品を「古瀬戸(こせと)」と呼ぶ。この古瀬戸は美濃焼とともに国内唯一の施釉陶器で,「六古窯」を中心とする他の中世窯の製品が釉薬(うわぐすり)をかけないものであったのに対し,きわ立った特徴となっている。近年の考古学による古窯址調査の成果によれば,瀬戸地方における窯業生産は古代までさかのぼって認められ,古瀬戸の生産は古代末期〜中世初頭の段階にいたって開始される。古瀬戸の製品は,小形の高級生活用具や宗教用具が主体であり,同じ時期の中国(宋)産の輸入磁器を模倣して作成している。製品を焼いた窯は,当初は窯窯(あながま)と呼ばれる地下式・半地下式のものであったが,15世紀末〜16世紀初めには地上式の大窯が出現した。ところが瀬戸窯自体は,大窯出現のころには衰退してしまった。戦国の騒乱により陶工が美濃国に移住したという,いわゆる「瀬戸山離散」のためである。それ以後,陶器生産の中心は美濃に移ってしまうことになる。
【近世瀬戸窯の展開】15世紀末〜16世紀の段階で,美濃窯に主要生産地の座を奪われた瀬戸窯は,近世に入ってもしばらくは,その位置を取り戻すことができず,初代尾張藩主徳川義直以来の保護・統制政策(窯株制・轆路一梃制など)により,ようやく生産を維持するという状態であった。そして,これらの保護・統制政策のなかで,瀬戸窯の製品は,若干の御用品を除き,尾張藩によるある種の専売制がとられていた。該期の瀬戸製品は,茶陶を始めとする多種の日用雑器類であった。しかし,17世紀初頭に有田で生産され始めた磁器(伊万里焼)が,17世紀中葉にいたり国内市場を圧迫し始め,瀬戸窯も磁器生産を余儀なくされた。瀬戸における磁器生産の開始は,19世紀初頭であり,それ以降につくられた磁器を「新製焼」,陶器を「本業焼」という。新製焼の主体は,染付の碗・皿類をはじめとする日用雑器であった。現代に残る「せともの」の名は,この磁器生産草創期に大量生産された柳茶碗・太白(たいはく)茶碗などの,伊万里のくらわんか碗を模倣してつくられた碗類によっているといってもよいだろう。
【近世の瀬戸窯】明治維新に伴う社会不安や物価上昇,各藩による保護・統制政策の打ち切りは,各地の窯産地にも深刻な影響を与えた。瀬戸でも,1869年(明治2)には瀬戸村の庄屋から尾張藩に対し,陶磁器生産者の救済願いが出されている。しかし,技術水準の高かった日本の窯業界は,海外貿易に活路をみいだすとともに,欧米の近代技術を積極的に取り入れていく。瀬戸でも1874年(明治7)西洋顔料(酸化コバルト)を使った合成呉須(ごす)を使い始めている。さらに,翌1875年には,石膏型鋳込成形法(せっこうがたいこみせいけいほう)が加藤友太郎(ともたろう)によって瀬戸に伝えられるが,それは型紙絵付け手法・銅版絵付け手法の本格的導入とともに,大量生産・工業生産を進めていく上での不可欠な条件であった。なお,1902年(明治35)に瀬戸で工夫された石炭窯はその後急速に普及して,昭和初期には瀬戸窯の大部分を占めるにいたっている。近世・近代瀬戸窯の技術と製品の歴史は,いまだに明らかになっていない部分が多く,今後の研究の進展に期待するところが大きい。
〔参考文献〕楢崎彰一「瀬戸」世界陶磁器全集,1977,小学館
永原慶二他編「窯業」日本技術の社会史 4, 1984,日本評論社
楢崎彰一編「瀬戸 美濃」日本陶磁器全集9,1976,中央公論社