50音順    検 索

●瀬戸内漁業 せとうちぎょぎょう

アジア 日本 AD 

 瀬戸内海は地球上で氷河時代が終わり,氷が融けて海面が上昇した結果生まれた新しい海だが,海ができる前からこの地域にはすでに人類が住んでいた。海の形成とともに沿岸に住む人々は海産生物を採捕し,その結果多くの貝塚ができた。古代には瀬戸内海の入口にあたる和歌山市付近や大分県南部には漁人が大きな集団をつくって住んでいたようで,海部郡が置かれ,また瀬戸内海内部にも各地に海人(あまびと)が住み,漁撈を行っていた。平安時代,大坂湾岸には網曳の御厨(みくりや)があり,備前などの国々からは海産魚を朝廷に貢進していた。しかし商品経済としての漁業生活が盛んになるのは中世以後,海上交通の発達に伴って港町が発展し,水産物消費が多くなりはじめてからであろう。戦国末期には港町や城下町などの都市に付属した形で漁村が成立していたし,多くは水主浦(かこうら)として領主のために漕船の役務に奉仕する代償として漁業上の特権を与えられ,広域にわたる漁業権を有していた。そののち沿岸の農村で綿作が盛んになると,魚肥の需要が高まり,沿岸部では肥料用乾鰛(ほしか)の製造のため,地曳網を使ってイワシをとる半農半漁村が急増し,これらの村々からも各種の沿岸漁業に従事する漁民が現れるにいたった。また戦国末以降1年の大半を海上で暮らす,船住まいの漁民が各地で操業していた。これらの人々は小型のテグリ網で藻場の小魚を漁獲し,主として農村に行商していたが,江戸時代後期になると,出漁先の浜辺に定着するようになった。こうして瀬戸内海沿岸には多くの漁村ができたが,そこで営まれる漁業も多様で,海底が砂地の海岸付近には網漁村が,岩礁質のところには釣漁村が生まれ,岩礁周辺の砂地の海底では延縄漁業も盛んであった。これらの漁具も時代が下るとともに精巧なものとなり,また大型の網や漁船も出現した。潮流や風を利用して船を移動させながら行う“打瀬網(うたせあみ)”と呼ばれる底曳網や“流瀬網(なかせあみ)”と呼ばれる刺網,小型定置網の“坪網(つぼあみ)”,タイ網の名で親しまれてきた“タイ縛り網”はいずれもこの時代に考案された。漁具の発達とともに,瀬戸内海漁民は季節ごとの魚に適した漁具を使って,多角経営を行うようになり,自らも“瀬戸内の七道具(もとで)漁師”と自称し,同時に好漁場には瀬戸内海各地からの漁民が集まるようになり,また幕末になると,季節ごとに漁場を変えて出漁する傾向もみられた。明治維新後このような広域に渡る出漁がますます盛んとなり,地元漁村とのあいだに紛争をひきおこした例も多いが,他方では進んだ技術が各地に普及し,漁業生産力も上昇した。かくて明治時代には瀬戸内漁業は最盛期に達した。大阪をはじめ近代都市の発展は水産物の需要を高め,いっそう漁業の発展を促した。だが大型網漁業の乱立をはじめ,乱獲の結果,瀬戸内漁業は明治の終わりから生産量が減少するようになった。一部の漁民は韓国沿海に出漁し,移民として定住するものもあったが,大部分は瀬戸内海の水産資源の一層集約的な利用につとめ,種々の漁法を考案して増産につとめた。しかし高級魚の漁獲の減少傾向を喰い止めることはできなかった。さらに第二次世界大戦中の小型機船底曳網漁業の採用は一時漁獲量を増大させたものの,底魚資源の減少に拍車をかけた。戦後,“とる漁業から育てる漁業へ”の転換がはかられ,水産養殖の振興をめざして生産技術が改良された結果,ノリ・カキの養殖水域の拡大をみ,ハマチ養殖も盛んとなり,またクルマエビや魚類を人工孵化させて海中に放流する栽培漁業が実施されるようになった。しかし1960年代以後の高度経済成長時代に沿岸各地に造成された臨海工業地帯は海水を汚染しただけでなく,産卵場を減少させ,水産資源の繁殖・生育を阻害するとともに,航行船舶の増大・大型化により漁業の操業も脅かされるにいたった。だが漁民は水産養殖を発展させるとともに,保護水面を設けるなど,漁業振興に努力し,水産資源の減少もやや鈍化するにいたった。今後資源の確保・環境の保全・埋立て事業の停止を徹底して実施できれば,瀬戸内漁業の復興も夢ではない。