●雪舟 せっしゅう
アジア 日本 AD1420 室町時代
1420〜1506(応永27〜永正3)室町時代に出て宋元風の日本水墨画を大成した画僧。備中都窪郡赤浜の小田某の子として生まれ,幼少で郷里の宝福寺に入ったが,やがて上洛して相国寺に入り春林周藤に師事し,法諱を等楊といった。そのころの相国寺は室町幕府の手厚い保護のもとに五山派禅院の中枢に位置し,かつ禅の修行道場というよりは新しい文化のサロンの観を呈していた。ことにこのころ,相国寺には周文があり,同じく相国寺派の画僧真如拙によって培われた宋元風水墨画の消化を一段と推進し,将軍足利義教の寵顧を得て幕府の御用絵師となり,画壇に君臨していた。生来,画才に富んでいた等楊は,必ずやこの周文に師事して画技を学んだことと思われるが,それを示す明確な史料はまだみつからない。他方,彼の参じた春林周藤が宝徳年間(1449〜51)相国寺内の鹿苑院に住し,五山・十刹・諸山の格式をもつ祥宗寺院を総轄する僧録司となったので,相国寺内における彼の地位もそれにつれて高まり,賓客や来訪者を接待する知客(しか)という役位に補任され,「楊知客」と呼称されていた。しかし周文の影響下に画僧としての道を歩みはじめた彼は,中国(明)に渡って本場の画技を学ぼうと願い,そのためには当時遣明船のことを管掌していた周防の守護大内氏に親近することが得策と考えたからであろう,35歳前後のころから大内氏の城下山口の近郊に雲谷庵を営んでこれに移り,専門の画家としての生活に入った。ただしこのころはまだ「拙宗等揚」と称していたらしく(田中一松氏の説),この期の作品としては小林家蔵の『山水図』や草場家蔵の『杜甫臂鷹図』などがあげられている。しかし龍崗真圭の『雪舟二字説』によると,彼は1462年(寛正3)43歳のとき,元の名僧楚石梵キ※注1※の筆になる〈雪舟〉の2大字を入手し,これを機に〈雪舟等揚〉と改称したことが知られる。浅野家蔵の『ホウ※注2※夏珪山水図』や『ホウ※注2※季塘牧牛図」など,中国画家の筆様を模した作品は,この時期の作品ではなかろうか。彼はこうして渡明の機会を待っていたが,1467年(応仁1)48歳のとき大内氏の3号船に便乗して明に渡った。彼は寧波に上陸すると五山第3の太白山天童景徳寺(通称,四明天童)を訪れて,同寺の第一座(首座)という禅僧としての高い役位に補せられ,ついで,北京に赴き会同館内の礼部院の中堂の壁に描いて名声を博した(呆夫良心『天開図画楼記』)。しかし彼がのちに弟子の如水宗淵に与えた『破墨山水図』(東京国立博物館蔵)の自賛において,〈明に渡って師とすべき画家を求めたがみ当らず,わずかに長有声と李在の両者について,設色法と破墨法とを学んだだけであった〉と述懐しているように,明の画壇に幻滅を感じて1469年(文明1)に帰朝した。東京国立博物館所蔵の『四季山水図』4幅は,その画風と〈日本禅人等揚〉という款記からみて,在明中の作であろうと推定される。しかし帰国したときは応仁の乱の最中で上洛もならず,山口から豊後大友氏の城下の府内に移り,天開図画楼を構えて制作に励み,写実的手法を加味した新技法で『鎮田瀧図』を描いた(1476作,関東大震災で焼失)。彼は1479年(文明11)のころまでに山口の雲谷庵にもどり,大内氏とその重臣らをパトロンとして作画に精進し,大和絵肖像画の手法を摂取して『益田兼?像』を描き,1481年から1483年にかけて美濃から遠く出羽の立石寺方面まで遍歴した。この旅行と観察とは,従来の粉本模写の水墨画にみられなかった画面構造の立体性と重厚さとをもたらし,雪舟芸術の完成に大きく寄与したものであった。雪舟は老来いよいよ健筆で,1486年(文明18)に大作『山水長巻』(毛利家蔵)を完成しているが,東京国立博物館蔵の『秋冬山水図』2幅もこのころの作と推定されている。彼は山水画を最も得意としたが,その画域は花鳥画・道釈画にもおよび,〈行年七十一雪舟筆〉と款記のある前田家蔵『花鳥図屏風』や小坂家蔵の『花鳥画』があり,また1496(明応5年)77歳の年には鋭い禅機を秘めた『慧可断臂図』を描き,これより1年前には『破墨山水図』を描いてこれを如本宗淵に与えている。しかも彼は82歳を過ぎて丹後の天の橋立を訪れて,『天の橋立図』の大作を描いた。これは従来の宋元風水墨山水画に訣別し,日本の風土と日本人の美意識に諧和した,その意味で日本的な水墨山水画を大きく前進させたもので,雪舟の業績を文字通り代表するものである。雪舟はこのようにして日本絵画史上に大きな役割を果たして,1506年(永正3)8月,87歳で没した。その弟子には如水宗淵・霊峰等悦・秋月等観らがある。
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