●摂関政治 せっかんせいじ
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摂政関白による政治のこと。律令政治の衰えがみえるに従い,藤原氏が自家の荘園のことなどを扱った家の政所を中心に,摂政あるいは関白として行った国の政治である。天皇幼少時に,皇族が天皇に代わって政務をとるのを摂政,天皇が元服成人ののちは関白と称して代わりに政治を行う。平安時代9世紀後半から,院政成立の11世紀中ごろまでの政治がそれに当たる。摂政は,太政大臣藤原良房が娘明子を文徳天皇の後宮に入れ,その生んだ子供の清和天皇(9歳)が幼少のゆえに,外祖父良房が政治をあずかったのに始まる(858)。良房が872年(貞観14)に死んだのちは,嗣藤原基経が後を受けた。天皇が元服したのちも879年(元慶3)まで基経は摂政を称し,のち関白を称した。陽成天皇の代である。次の宇多天皇の代も引きつづき基経は関白に任じ,天子の政治にかかわった。醍醐天皇の延喜・延長年間(901〜930)には天皇親政となるが,930年(延長8)藤原忠平は摂政から関白に任ぜられた。そのあと一時中断したが,967年(康保4)冷泉天皇の代に,藤原実頼が関白となってからは長くつづいた。そのほとんどを藤原氏の長者が,天皇の命によって任ぜられ,その系統の北家藤原氏の全盛を導いた。とくに藤原道長・藤原頼通の時代に最盛期となる。摂関の任命は天皇の委託によるというものの,実質的には,主権は天皇の手を離れ摂政関白に移っている。そして,その政所が国政の中心となった。そうなると朝廷は,恒例臨時の儀式を行う場となり,摂関邸が国政を議する所となる。『神皇正統記』に〈この御門より天皇の号を申さず〉とあるように,冷泉天皇のときから在位中でも院といい,摂関政治によって,天皇の性格まで変わってきたのである。そして久しくこの形がつづく。1086年(応保1)白河天皇は34歳の壮年で退位し,8歳の皇子善仁親王を立てて皇太子とし即日即位させた。堀河天皇である。これは,白河天皇の父後三條天皇の遺志が,白河天皇のあとは,弟の輔仁親王を皇嗣とするとあったのに反し,自分の統を皇位におこうとしたためである。白河天皇はきわめて意欲的な天皇であり,幼帝の政を父として後見し,事実はまったく自分で政治を支配して,藤原氏の摂関による政治を皇室の手に取り戻したのである。すなわち院政で,これにより政治は摂政,あるいは関白と院とによって行われることになった。白河天皇時代,関白は頼通の子藤原師実,院政となって師通,しばらくおいて藤原忠実とつづく。その忠実の日記『殿暦』には,関白は内裏に参入するが,そこで行われることはすべて院に報告し,摂関以下が独断で事を決することはない,とある。その後,荘園整理運動の機運と相まって,摂関政治はその基盤を失う。院の近臣である受領出身者の手に,政治の実権は移っていったのである。しかしその政治的立場はなかなか固く,院政とともに近世にまで,その形の一部は残った。摂関家は摂関の地位を得るため,内では子女の入内に奔走し,外では他氏を制した。のちには一族内で争い合い,藤原道兼・藤原兼家兄弟の反目は,ことのほか激しいものであった。関白忠実は次子頼長を偏愛し,長子忠通を遠ざけて頼長を氏の長者として財産など多くを与えた。しかし摂関の職は,形式だけとしても私することができず,一時関白と氏の長者が,忠道と頼長おのおのの手にあるありさまを呈したこともある。藤原氏は,この摂政関白によって王朝政治を掌握し,ときには左大臣頼長がいったように,〈摂政は天子なり〉のありさまを示し,〈今の関白の第はこれ朝廷ならず〉ともいわれたのである。