●石油ショック せきゆショック
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1973年10月6日に第4次中東戦争が勃発し,16日にはOPEC加盟のペルシア湾岸産油6カ国は,原油公示価格を21%引き上げると発表し,さらに,原油生産の削減と非友好国への禁油を決定した。さらに12月には,翌1974年1月より原油価格を2倍に引き上げると決定し,第二次世界大戦後,高い経済成長を示していた世界経済,とりわけ日本経済にとって大打撃を与えた。いわゆる“第1次石油ショック”の発生である。この時期の原油価格の上昇は,アラビアン=ライト(標準原油)で,1973年10月1日に1バーレル(約160l)当たり3ドルであったのが翌年1月1日には,11ドルにまで上昇するというものであった。日本の場合,CIF輸入価格で,1973年に1kl当たり約5,600円であったのが,1974年には約1万9,800円へと約3.5倍にも上昇し,エネルギーの大部分を原油に依存し,しかもそのほとんどすべてを輸入に依存しているわが国にとって,大幅な国際収支の悪化・異常なインフレーション・経済成長の急激な鈍化など,きわめて大きな打撃を余儀なくされた。1950年代後半から1970年ごろにかけての高度経済成長は,すでに,1971年(昭和46)の“ニクソン=ショック”によって終焉していたが,さらに,外的要因として石油ショックが強烈にわが国を襲ったのである。国際貿易面では,1973年に2億8,668klの原油を輸入していたのが,1974年には2億8,048万klに,1975年には2億6,281万klへと減少した。しかし,原油価格の大幅な上昇に伴い,輸入金額は大幅に増大し,経常収支でみれば,1972年には66億2,400万ドルの黒字であったのが,1973年には1億3,600万ドルの赤字に,1974年には46億9,300万ドルの赤字に,1975年にはさらに6億8,200万ドルの赤字となった。この国際収支の悪化が為替レートの低下をもたらし,とくにわが国のレート低下は他の先進国より大幅な数字を示した。石油代金の国際収支に占める比率は,高度成長期には十数パーセント程度でほとんど変化がなかったが,石油ショックを契機に,30%を超えるものとなった。まさに,資源依存国であるわが国の脆弱性を示すものである。物価面においても,石油ショックは大きな傷跡を日本経済に残した。当時,すでにインフレーションは進行しつつあり,石油ショックは一種のパニック状態を国内にひきおこした。各地で,便乗値上げやトイレットペーパー・洗剤の買い溜め現象などを生み,終戦直後の混乱期なみの“狂乱物価”と称されるほどの異常な様相をみせた。石油価格の上昇は,それだけ輸入原材料のコストを引き上げ,物価の上昇(石油インフレ)をもたらすものであり,卸売物価指数でみれば,1972年には対前年比0.8%の上昇であったのが,1973年には15.8%,1974年には31.4%もの上昇を示し,消費者物価指数でも,1972年には4.6%の上昇であったのが,1973年には11.8%,1974年には24.3%の上昇を示している。
石油価格の上昇は,景気にも大きな影響を与えた。ニクソン=ショックにより沈滞していた景気は,政府の一連の金融緩和・経済刺激政策によって回復基調にあり,実質成長率で,1972年9.0%,1973年8.8%という高度経済成長期に匹敵するような数字を示していた。ところが,石油ショックによって,所得は石油代金支払いという形で産油国へ流れ,国内の有効需要は減少しつつあった。しかも,インフレーション沈静化のために,政府は1983年には,相次いで公定歩合を引き上げ(5.00%から9.00%へ),引き締め政策を行った。この影響は企業収益を悪化させ,民間投資・民間消費をともに減少させ,景気の後退を余儀なくさせ,実質成長率では,1974年はマイナス1.2%と戦後初めてのマイナス成長を経験し,以後も1975年に2.4%,1976年に5.3%と石油ショックを契機とし,以前の高度成長から低成長へと日本経済が移行していったことを示している。そのほかにも,第1次石油ショックは労働生産性を低下させ,所得の分配面でも大きな影響を与え,企業収益の大幅な低下をもたらした。このように,国際収支・物価・経済成長などに大きな影響を与えた第1次石油ショックも,1975年から1976年にかけて急激な石油価格の上昇をみることもなく,国内的にも,政府支出増加・金融緩和政策などを通じ,しだいに経済はもとの活力を回復しはじめた。1976年からは原油輸入量は増大し,一方,輸出も増大することによって経常収支は黒字になり,卸売物価指数・消費者物価指数ともに上昇率が一桁台に戻り,経済成長も5%台を維持していくこととなる。1977年度から1978年度には積極的な財政政策が実施され,1978年後半以後は民間消費・民間投資も回復しはじめ,他の諸国に比して,わが国は奇跡的な適応をみせたのである。
こうしたなかで,イラン革命を契機としてイランでの石油生産が中断し,需給が逼迫したため,1978年末には,OPECが翌年よりの原油価格を4段階に分けて14.5%値上げすることを決定し,再び世界経済が“第2次石油ショック”に見舞われることとなった。実際に,アラビアン=ライト販売価格で1979年1月には,バーレル当たり14.3ドルであったのが,4月には14.5ドル,7月には18ドル,11月には24ドルと,翌1980年1月には26ドル,4月には28ドル,8月には30ドルへと大幅に上昇した。上昇率こそ第1次石油ショックより小さいとはいえ,その上昇幅は20ドル近くにもなり,絶対額としての経済に与える影響度は前回をもしのぐものであった。ところが,今回の石油ショックによる日本経済への影響は,結果として前回より軽いものであり,経済が立ち直るのには,前回ほどの長い時間を必要としなかった。国際収支に関しては,原油価格の大幅上昇を受けて,経常収支でみると,1978年の165兆ドルの黒字から,1979年に88兆ドルの赤字,1980年に107兆ドルの赤字を示し,石油代金の国際収支に占める比率も38%程度にと前回よりさらに上昇していた。しかし,実質経済成長率をみると,四半期別成長率では,ほぼ1%台を維持し,年率でも1979年で5.2%,1980年で4.8%,1981年で4.0%と急激な低下をみることなく,むしろ低成長の軌道にのった感さえある。物価の面でも,卸売物価指数で,1979年に7.3%,1980年に17.8%,消費者物価指数で,1979年に3.6%,1980年に8.0%と上昇しているが,前回ほどの急激な上昇は示さず,1981年には,それぞれ1.4%,2.7%とほとんど沈静している。
ショックの度合自体は,第1次に決して劣るものではないが,日本経済が比較的軽微な影響を受けるのみですますことができた理由として,次のような要因があげられている。第1に,家計・企業・政府ともに第1次石油ショックより多くの学習を積み,その経験が十分に役立ったことである。第2に,国内需要は鈍ったものの,労働生産性の上昇にもとづく輸出競争力の強さによって,輸出が大幅な伸びを示したことである。第3に,第1次石油ショックのときのように賃金上昇率が高いものとならず,比較的安定した状態を維持し,省エネルギー対策や合理化が企業内ですすみ,設備過剰感が少なくてすんだことである。第4に,政府のとった対応・政策が比較的適切であったこともあげられよう。
〔参考文献〕マクラッケンレポート,小宮隆太郎・赤尾信敏訳『世界不況とインフレの克服』1976,日本経済新聞社
小峰隆夫『石油と日本経済』1982,東洋経済新報社