●石炭 せきたん
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石炭とは,数億年前に繁茂していた種々の植物が地中に埋もれて長年月のあいだに変質してできた有機物で,工業的に利用しうる可燃性岩石をいう。【工業化と石炭】石炭が人類の歴史に現れたのはすこぶる早く,すでにギリシアでは,鍛冶屋が木炭の代わりに石炭を使ったとする記録がある。一方,中国でも宋の時代には燃料に利用する目的で,石炭を採掘していたという。日本については『日本書紀』の668年(天智天皇7)の記事〈越の国,燃土と燃水とを献る〉が最も古い。しかし,石炭が家庭用・工業用燃料として本格的に利用されたのは,16世紀中葉以降のイギリスが初めてである。16世紀中葉以前,イギリスでは燃料としておもに薪や木炭を使っていたが,少しずつ森林の枯渇・木材資源の欠乏がすすみ,薪や木炭の不足が目立ってきた。熱エネルギー危機はしだいに生活を圧迫しはじめ,生産を停滞へ落とし入れた。イギリスはこの危機を,石炭の利用で乗り切ったのである。イギリスの石炭生産高は1550年ごろは約40万t,100年後の1650年ごろには約150万t,1700年ごろにはほぼ300万t,1750年ごろには450万tに達した。その結果,17世紀を通じて大量の燃料を必要としたガラス工業・製塩業・醸造業など諸産業の燃料不足は解消し,生産額は上向いた。また,家庭用燃料もしだいに石炭へ変わっていった。薪・木炭から石炭への燃料転換は,石炭利用の各種産業に新しい型の生産組織や資本家を生み出し,工業化・産業革命への有力な引き金になった。しかし,近代社会のエネルギー体系の特徴は,熱と動力が一つの体系に統合されることなのだから,単なる燃料転換だけでは工業化・産業革命はおこらない。別々に無関係に存在していた熱・動力両エネルギー体系が一つの体系に統合され,複動式蒸気機関が登場し,産業社会の新しい動力体系・生産様式が現れねばならない。16世紀以降のヨーロッパ,とりわけイギリスの動力エネルギーの利用は,畜力の増加に依存する形で発展し,石炭の需要増加に応える炭坑の開発,とくに排水の処理にあっても,最初人力とともに畜力が利用された。しかし,当初最も効率的と考えられた畜力の揚水にも限界が生じ,石炭の熱で水を蒸気に変えて,その圧力で揚水するポンプが発明された。これら初期の蒸気機関は,多量の石炭を必要としたため,炭坑地帯を中心に普及し,石炭の需要をいっそう喚起した。鉄と石炭の時代を象徴するものの一つに蒸気船があるが,イギリス蒸気船が世界の海を制覇するには,豊富でかつ良質の国産炭を世界各地に輸出し,各寄港地に石炭を十分に確保する必要があった。第一次世界大戦直前のイギリスの石炭生産量の32.5%,9,800万tが輸出され,180を越える石炭基地が世界中に配置された。こうした石炭を中核とするイギリスの世界貿易・エネルギー戦略の一翼を担ったのが日本であった。もっとも,イギリスの炭坑業経営は比較的小規模のものが多く,第一次世界大戦後は,欧米各国に比べて技術的な立ち遅れが目立った。19世紀後半以降アメリカ・ドイツなどでは,石炭産業が急速に伸び,重工業の発展に貢献した。ソ連が重工業振興のために石炭の生産に力を入れはじめたのは,ロシア革命以後である。
【江戸中後期日本の石炭】日本における石炭の記録は,前述の『日本書紀』のほか『本草和名』『本草和名抄』『石原家記』などがあるが,石炭生産に関する具体的な説明が現れるのは,17世紀の末葉にはいってからである。1703年(元禄16)に黒田藩主綱政に献上した貝原益軒の『筑前国続風土記』には,〈燃石(もえいし) 遠賀郡・鞍手郡・嘉麻郡・穂波郡・宗像郡の中,所に山野に有え,村民是を堀り取て,薪に代用ゆ。遠賀・鞍手殊に多し,頃年糟層の山にてもほる。烟多く臭悪しといへどもよくもえて火久しく有,水風呂のかまにたきてよし。民用に便あり,薪なき里に多し,是造化自然の助也〉とあり,寺島良安の『和漢三才図会』は,〈石炭(いしずみ)は筑前の黒崎村,長門の舟木村に多く有之,土人山を掘て之を取り以て薪に代ふ。其気臭し。彼地烟(はげやま)多くして柴薪に乏しければ,これ乃ち一助となる〉と記録している。このほか珍しい記録では,ドイツの博物学者・医学者ケンペルがオランダ東インド会社医師として日本潜在中,見聞して書いた『日本誌』や井原西鶴の『一目玉鉾』などがある。それらによれば17世紀後半,筑前・豊前・長門地方などでは,自家燃料として薪の代用に使用されたことがわかる。18世紀初頭以後,石炭は自家消費の段階を超えて,福岡・博多など都市部へ販売を目的に送られるようになった。また18世紀初頭には,石炭の新しい市場として製塩業が登場する。製塩業では,最初燃料として松葉を使ったが,価格が高騰し塩価に響いたため,代替燃料として石炭が使われるようになった。購買力の限られた地元中下層農民に代わって広大な需要をもつ瀬戸内や北九州の塩田市場が,有力石炭市場として脚光を浴びるにいたるのである。一方,石炭の市場生産は財政危機にあえいでいた諸藩の注目するところとなり,石炭の専売収益による藩財政危機の乗り越えが諸藩で計画された。もっとも,収益による貧窮農民の救済と石炭採掘による余業機会の付与を狙った封建農民対策の一環とみる新しい見解も出されている。
【安政の開国と日本の石炭】東アジア地域は,1840年代から蒸気船時代に入っており,日本もまたぺリーの浦賀来航を契機としてそのながに繰り込まれた。日本は,蒸気船による定期航路が世界的規模で完結する最後の地点であった。定期航路の発展には,石炭・修船工場・ドック・灯台・電信・港湾設備などが必要であるが,とりわけ石炭の補給はきわめて重要で,東アジアにおける船用炭不足は深刻であったため,開国後の日本炭はにわかに注目を浴びた。一方,幕府や西南雄藩を中心とする諸藩による蒸気軍艦の運用,製鉄所や精錬所の設立のために,石炭の国内需要も高まった。この時期,わが国炭坑のなかで最も内外の関心を集めたのは高島炭抗である。佐賀藩が上級家臣深堀氏に与えた知行地深堀領の高島では,元禄年間(1688〜1704)すでに採炭が行われ,地元高島では鍛冶用,それ以外では塩浜用として使用された。天保年間(1830〜44)高島炭山方が設けられ,深堀氏による一種の石炭仕組法が敷かれた。佐賀本藩は,御初穂上納の形で高島の小物成銀15枚を徴収し,高島炭の旅売り利潤にも運上銀をかけた。旅売り分以外は佐賀本藩が一括して買い上げた。佐賀藩とイギリス居留地商グラバー商会が,1868年(明治1)に行った高島炭坑合弁契約の締結ならびにそれにもとづく事業が,同藩殖産興業政策の一環であったことは論をまたない。同藩殖産興業政策の指導者,藩主鍋島直正はオランダ商館長の示唆で,外国貿易のための代品生産の必要に気づき,代品方を設けて同藩国産物石炭・米の生産・販売で実収を土げた。海外での高島炭の売れ行きをすでに熟知し,高島炭坑経営の進歩を狙っていたグラバー商会は,1868年グラバー邸滞在中の浜田彦蔵を通じて,佐賀藩へ同炭坑合弁事業の具体案をもち込んだ。合弁事業契約の内容は,契約期間は7カ年で生産・人事面は佐賀藩,輸出面はグラバー側の負担とする,利益は3カ月ごとに規定で平等に分配する,グラバー商会は3カ月おきに地代を深掘家に支払うなどがおもなものであった。1869年(明治2)12月から1871(明治4)10月にいたる期間の高島炭販売高は約4万6,500tに達し,売込先は上海・香港・内外蒸気船・各国居留地商館などであった。長崎に近い肥前唐津炭田は,運送の便宜や自然排水に恵まれたため,西南諸藩の進出が目立った。1872年(明治5)政府が出した鉱山心得,翌1873年現定の日本坑法で,土地所有と坑区所有の分離,坑物・借区開坑などに関する政府の方針が決定し,高島・三池・幌内は官収された。その後,高島は後藤象二郎に払い下げられ,やがて三菱の経営に移る。三池は外来技術導入と,三井物産による海外輸出により急速に発展する。その発展とは裏腹に,高島の納屋制度,三池・幌内の囚人労働などに象徴されるように,炭坑の労働条件はきわめて劣悪であった。
【日本の工業化と石炭】1890年代に,筑豊炭田の開発が本格化し,門司港からの石炭輸出が始まるや,日本の石炭輸出量は100万tを突破し,極東市場に進出してきていたイギリス炭やオーストラリア炭を駆逐して,東アジア市場に支配的な地位を占めるにいたった。それらの多くは船舶用炭であり,明治中期における石炭の50%前後が船舶用炭(日本沿海航路用も含む)で占められた。船舶用炭は,石炭市場の量的側面において近代日本の石炭産業史上主導的役割を果たしたのみならず,それが高カロリーの塊炭であることから,蒸気力と機械化による大規模な開発がすすめられた点で,技術的にも日本の石炭産業に大きな影響を与えた。また,製塩用炭市場が瀬戸内海沿岸地域に限られていたのに対し,船舶用炭は太平洋沿岸・日本海沿岸諸地域に市場をひろげ,かつ工業化の進展に伴って,工場用炭の需要増大という新規市場開発に影響を与えた。工場用炭は明治中期以降急激に伸び,後期には,国内石炭消費量の半ば以上に達し,大正期に入りその増加はいっそう顕著となった。1861年(文久1)に創業した長崎製鉄所で初めて工場用炭が使用されたのを契機に,東京砲具工廠・赤羽工作分局・横須賀海軍工廠などの官営工場で使われたが,輸送手段の不備などのために供給は不安定で価格も大きく変動した。その後,石炭を大量に消費する綿糸紡績・セメントなどの民間企業がおこり,石炭輸送の便のよい地域に拡大していった。また,石炭産業自体が石炭の大量消費の主要業種であった。明治後期にいたると,工業先進地域を超えて石炭市場は大きく拡大してゆくが,それは重量物である石炭の輸送が技術的に可能になったからである。石炭の国内消費量の推移を大消費地大阪の例でみれば,1905年(明治38)約104万t,1911年(明治44)約161万t,1918年(大正7)約296万t,1928年(昭和3)約266万t,1935年(昭和10)約380万tである。
【第二次世界大戦前後のわが国石炭産業】1931年(昭和6)満州事変の勃発を契機に,準戦時体制に入り強制的な労働力の投入で,1940年(昭和15)には5,631万tの生産額に達した。その後生産は低下し,終戦時には2,200万tにまで落ちこんだ。しかし傾斜生産方式では鉄鋼業とともに石炭業が超重点産業に指定され,1961年(昭和36)には5,540万tの生産高に達する復旧ぶりをみせ,戦後の日本の経済復興に大きく寄与した。しかし,その後エネルギー消費構造の変化がおこり,石油が石炭に代わってエネルギー需要を充たしていった。石炭から石油へのエネルギー革命は,石炭産業の斜陽化・経営危機を招いた。これが地域経済に与えた影響は深刻で,福岡県に例をとれば,朝鮮動乱によるブームが終息すると各地で貯炭の山が目立ちはじめ,炭坑労働者の失業者は激増した。折から1952年(昭和27)石油の統制は撤廃され,九州でも八幡製鉄所で石炭から石油への転換が行われたのをはじめ,国鉄・電力なども次々に石油への転換をすすめた。第2次石油ショックで石油の価格が高騰した直後,鉄鋼・セメントなどが石炭へエネルギーを換えたこともあり,一時的に石炭生産高の上昇をみたこともあったが,その後は減少の一途をたどり,1982年(昭和57)の生産高は1,740万t台に低迷している。国内炭低迷の最大の原因は,輸入炭に比較して割高な点にある。1981年(昭和56)8月石炭鉱業審議会は年間2,000万t体制の回復・維持を打ち出したが,石炭の内外格差はなお現在拡大する一方であり,2,000万t体制回復は事実上困難視されている。北炭夕張炭坑の再開発断念は,石炭産業の置かれた立場を象徴しているといえよう。
〔参考文献〕隅谷三喜男『日本石炭産業分析』1968,岩波書店
社会経済史学会編『エネルギーと経済発展』1979,西日本文化協会
秀村達三・武野要子・田中直樹校註『明治前期肥前石炭礦業史料集』1977,文献出版
秀村達三・作道洋太郎他編『近代経済の歴史的基盤』1977,ミネルヴァ書房
筑豊石炭礦業史年表編纂委員会編『筑豊石炭礦業史年表』1973,
武野要子「唐津炭坑資料の紹介」福岡大学商学論叢17−1,
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