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●関所 せきしょ

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 関ともいい,古代以来,政府または領主が要害の地に政治的・軍事的目的で通行の人貨を検査した番所。古代では646年(大化2)に軍事目的で設置したが,律令国家の衰退とともに有名無実なものとなり,中世になると,朝廷・幕府・領主などが関銭徴収を目的としている。近世に入ると治安を目的とした幕府直轄の関所は50余カ所に及び,関所通行に一般的に関所手形を要し,江戸へ入る入鉄砲と婦女子の取調べはことに厳重をきわめており,夜間通行は上使か幕府の継飛脚以外はまったくみとめられなかった。そして1869年(明治2)に全国的に廃止された。

【古代の関所】古代,奈良・京都の防衛の目的で設置された関所は鈴鹿関(伊勢国)・不破の関(美濃国)・愛発関(越前国)の3カ所であった。のち愛発関逢坂の関(近江国)に代わったが,789年(延暦8)に廃止されたのちも,国家の大事ごとに重視されている。三関の設置された国には,在関国の国司が兵士装備を配置して警衛にあたらせ,非常時には固関使が派遣された。そして関所を守固することを固関(こげん)といい,三関は日常国司の守固にまかされているが,天皇の崩御や反乱のおきたときは,中央から固関使が派遣され,その任務についている。令制では,「関市令」に関の規定を定めており,それによると関所を通行しようとするものは,すべて本郡・本司をへて過所(通行証)を申請して,関職または国司の過所の下付をうける。関は門を日の出とともに開き,日没とともに閉じる。関司は過所をしらべて通行を許す。駅馬や伝馬を利用するものは駅鈴か伝符を携帯しているかどうかをしらべる。その後三関のほかに東北地方の三関ができ,勿来の関白河の関念珠の関がつくられている。この種の関のでき方は地域区分のあり方とかかわっている。そのほかに相模の足柄の関・上野の碓氷の関がもうけられたが,律令制の衰退とともに有名無実となった。

【中世の関所】中世には交通路・交通施設の建設・修理料などの徴収の名目で,幕府や朝廷・大寺社が関所を設けている。とくにこの時期には荘園領主が交通税を徴収するために設けた関所が現れた。こうした経済的関所は鎌倉時代になるとしだいに増加した。建武中興のときにも大津・葛葉のほかは所々の新関を廃止し,南北朝内乱以降荘園を侵略された荘園領主や財源にくるしむ室町幕府が収入を目的として関所を乱設した。このころ設置されたものはとくに兵庫・淀・京七口関は有名である。しかしその権力がおとろえるにいたって,領主らは各地に関所を設けている。15世紀ごろには,淀川沿岸だけで380,全国では600カ所の関所が設けられている。関所を通過する旅人・商人は関銭(せきせん)を支払うが,その額は関によって異なり,旅人より商人,荷物では徒歩者のものより,車・馬の荷駄が高かった。この経済的関所は織田・豊臣政権によって廃止された。

【近世の関所】室町時代末には参宮街道桑名−日永間4里に60関,伊勢一国に120もあった関所が廃されたあと,幕府は治安統制のために諸国に大小70の関所をつくったといわれる。そのなかで有名なのが,浦賀・小仏・栗橋・碓氷・松戸・市川などの関であった。これは江戸の防衛の必要上設置されたものである。とくに箱根・新居(今切)・横川・福島が重視され,〈入り鉄砲に出女〉といわれた江戸入りの鉄砲と人質としての大名家族の脱出防禦に力を尽くしている。箱根の関の近くの根府川・河村・谷ケ村・仙台原・矢倉沢にも関所があり,長い棚をもうけていた。関所を避ける者は関所破りとみなされ,磔刑に処せられている。武家の女性には江戸を出るとき幕府の留守居,その他の地の場合は所司代や幕府が指定した大名などの発行した通行手形を必要とした。庶民の場合は,居住地の名主や檀那寺の手形(証明書)が必要であった。幕府は直轄領の甲斐や飛騨の国境には口留番所をつくっている。諸藩も物資の大量移動防止のため口留番所をつくった。河川には河岸が設定され,海路にも海の関も設けられている。下田・浦賀はその代表的事例である。

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