●世界恐慌 せかいきょうこう
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資本主義経済独特の過剰生産がもたらす経済恐慌は,すでに19世紀前半からイギリス・フランス・アメリカ・ドイツなどの諸国で発生し,経済を混乱させてきたが,とくに1929年10月24日木曜日にニューヨークのウォール街にある株式取引所を突然襲った株価の大暴落はアメリカのみでなく,全世界に波及する金融恐慌の発端で,翌年からソ連を除く全世界が全産業をまきこむ慢性的大恐慌に突入した。そこで世界恐慌とは普通にはこの1929年のアメリカで突発し1930年初めにかけてすべての資本主義国家を襲った経済恐慌をさす。基本的な原因は需要と供給の不均衡にある。1920年代のアメリカ経済は自動車工業を初めとして,繁栄を謳歌していたが,第一次世界大戦の荒廃から回復していない各国の購買力が追いつかず,一方,交戦諸国の農業生産が回復にむかったことによって,農産物が過剰ぎみになっていた。農業不況に加えて鉄道や石炭産業部門も不振になっていたにもかかわらず,投機熱のみがあおられ,適切な抑制措置をとらなかったため,1929年10月ニューヨークの株価大暴落を招いた。アメリカの経済恐慌はヨーロッパそのほかの地域にも伝播し,1931年5月にはオーストリア最大の中央銀行クレジット=アンシュタルトが倒産したのにつづいて,ドイツはダナート銀行の破綻に始まり6月に全ドイツが金融恐慌にまきこまれた。ときのアメリカ大統領フーヴァー(1874〜1964))は農業局や復興金融公社などの公共事業をおこして救済につとめる一方,ロンドンとジュネーヴの軍縮会議で1カ年間の賠償戦債の猶予を意味するモラトリアムを提案して,深刻なドイツの財政危機を救おうとしたが,自由放任主義や個人主義に固執したため成果が上がらず,1932年の大統領選挙ではニュー=ディールの政策構想を掲げた民主党のルーズヴェルト(1882〜1945)に大敗した。1933年3月に大統領に就任したルーズヴェルトは三つのRをスローガンに掲げ,全国産業復興法(NIRA)・農業調整法(AAA)などを立法するとともに,テネシー川流域開発公社(TVA)と呼ばれる政府企業をおこして,果断な恐慌対策をすすめて成果を上げた。だが,イギリスが1932年のオタワ協定を締結して自治領と植民地から成るポンド=ブロックを形成すると,アメリカは合衆国と南北アメリカ大陸を包括するドル=ブロックを,またフランスは本国と植民地の結束をめざすフラン=ブロックをつくり,それぞれ自国本位の排他的広域経済圏を確立するという方向で恐慌対策を打ち出した。「もてる国」のこのような対策に対抗し,日本・ドイツ・イタリアなどの「もたざる国」は恐慌対策を侵略への道に求めた。1933年1月30日のヒトラー政権の成立はそのコースへの画期的な事件となる。ソ連は資本主義諸国の恐慌による社会経済の混乱にまきこまれることなく,スターリンの支配のもとで社会主義建設を急いだ。世界恐慌後顕在化した「もてる国」と「もたざる国」の対立とその激化が第二次世界大戦発生の背景であった。
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