●世界観 せかいかん
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ある時代,ある民族の集団が,共有している世界の見方の枠組をいう。宇宙論も世界観とほぼ同義の概念として用いられることがある。世界観の内容には,自分たちの住む村落や都市とその周辺や外界のあり方を示す空間論・他界観,世界の生成と変化を語る枠組としての時間論・歴史観,不幸や災い・病いの原因を説明し,対処法を規定する災因論,人間の精神や魂のあり方および身体との関係を説明する人間論,社会を支える権力の配分のされ方を説く権力論,そして人生の実践的指針となるような人生観や死生観など,さまざまな次元の枠組を含んでいる。このように多岐にわたる世界観は必ずしも一つの整合的な観念体系をなしているわけではない。それは状況に即応した自己と世界の関係についての解釈の表現であり,そこには状況の現実的把握とともに,実践的・倫理的な評価や価値観が加わっている。状況が異なれば,用いられる価値の枠組の次元も変わってくるし,それによって把える現実それ自体も違ったものとなる。逆にいえば,ある世界観は,異なる複数の現実の見方のなかから状況に相応しい現実の見方を選択できるだけの柔軟性をもつ多次元的な統合原理である。そのような世界観は,多くの社会において,神話や儀礼によって語られ,広い意味で宗教的なものとなる。【科学と世界観】学者によっては評価的・実践的な価値観を含む世界観と科学的・客観的な認識による世界像を区別する場合があり,また用語を区別しなくても,評価的な宗教的世界観と,認知的な科学的世界観とを区別するのが一般的である。しかし,この区別を,ふつういわれてきたように客観的かつ没価値的な認識による科学的世界像と主観的かつ評価的な解釈による宗教的世界観の対立に帰することはできない。そもそも“裸の目で生の与件を見る”ように認識することなど不可能であって,“認識”とはある枠組を通して概念的に見ることであり,科学的認識も最初から“解釈”を含んでいる以上,科学的世界像もあくまでも“一つの世界観”である。むしろ西欧近代科学の世界像の特殊性は,自らが“一つの世界観”にすぎないことを忘れていたことにあるといえるかもしれない。
【宗教的世界観の特徴】科学的世界観と広い意味での宗教的世界観の区別を,認知的か解釈的かに求めることができないとすれば,解釈の仕方の違いに求めなければならない。宗教的世界観の解釈体系としての特徴は,[1]世界の部分ではなく全体的かつ包括的な解釈であること,[2]その対象が非経験的な超自然的領域に関わることといわれるが,そのことは,科学的世界観が全体性をめざさないとか,宗教的世界観が個人の部分的な経験から遊離しているとかを意味するのではない。むしろ科学は世界全体に普遍的な原理を求めてきたし,宗教的世界観は,個別の局所的経験を解釈するためにこそ,それを全体性のなかに位置づけようとするのである。そこで問題となるのはそれぞれにおける“全体性”の意味の相違である。科学的世界観における“全体”とは,普遍的とされる同一的原理による概念的秩序の総体であり,その一元的な概念秩序にあてはまらないものは“見えないもの”とされ世界から排除される。科学的世界観同士も,たとえば古典力学と量子力学の世界観は相容れず“共約不可能”であり,その間の移行は不連続にみえるが,実際の移行において両者を連続させるのは日常的な世界観であり,それに意味と秩序を与えているものこそ宗教的世界観である。宗教的世界観における“全体”には一元的秩序を超えた“混沌”も含まれており,“見えないもの”にも解釈を与える。宗教的世界観は重層的であり,それからみれば科学的世界観は“部分的”である。たとえば,病気や事故などの災いを説明するとき,科学的世界観では病原体や機械の故障といった一元的な因果的説明で終わるが,それでは解釈されぬ個別の局限的経験の意味を,宗教的世界観ではそれをとりまくさまざまな次元の関係の交錯点における“裂け目”として位置づけ,たとえば妖術や祖先の怒りなどと解釈するのである。多次元な秩序とその裂け目に見える混沌を含めた全体性から解釈して初めて,他に還元できぬ個別の経験全体が意味づけられ耐えられるものとなる。