●セーヴル条約 セーヴルじょうやく
アジア アジア AD1920
第一次世界大戦後,1920年8月10日,連合軍とオスマン帝国とのあいだに締結された講和条約。ムドロス休戦協定(1918年10月30日)によってオスマン帝国の敗北が決定し,連合国軍によるオスマン帝国の主要拠点占領が進行,イギリスは,メソポタミアの油田地帯モスル,地中海沿岸のイスケンデルン,南東アナトリアのアンテプ・マラシュ・ウルファ,西アナトリアのエスキシェヒル・キュタヒヤ,黒海沿岸のトラブゾンを勢力下に入れた。またフランスは,地中海沿岸のメルスィン・アダナを占領,さらに,アンテプ・マラシュ・ウルファをイギリスから受け継いだ。イタリアは,南西アナトリアのアンタルや,クシャダスに上陸し,内陸のコンヤ・イスパルタを占領した。首都イスタンブールは,連合国軍がソ連のボルシェヴィキ対策として,ダーダネルス―ボスフォラス海峡とともに駐留していた。さらに,1919年5月15日,ギリシア軍がイズミルに上陸し,アナトリア中央部に進撃を開始した。これらの連合国の占領政策に対して,各地にトルコ人による抵抗組織が生まれ,それらを統一したムスタファ=ケマル(アタチュルク)は,国民の意志を結集する会議を開催し,1920年4月23日,アンカラに第一回トルコ大国民議会を召集してイスタンブールのスルタン政府とは別のアンカラ政府を樹立し,オスマン帝国を代表すると宣言した。このような情勢を背景として締結されたセーヴル条約は,占領政策による圧力のもとに,アンカラ政府を無視して,イスタンブールのスルタン政府がオスマン帝国の代表として調印した。条約の内容は,占領政策の追認であった。イスタンブールおよび隣接地域を除く東トラキアはギリシアに割譲され,イズミルと,その後背地はギリシアの行政権下に入る。マラシュ・ウルファ・アンテプ諸州はフランス,コンヤ・バルクエスィルを結ぶ線以南のアナトリア南西部はイタリアが勢力範囲とする。トラブゾン・エルズルム・ヴァン湖を含む東北アナトリアには,ダシナク派アルメニア共和国が樹立される。またシヴァス・エラズウ・マラティヤを含む東南アナトリア地方に自治権が与えられ将来クルド人国家が成立される。イスタンブールは,オスマン帝国の首都として,帝国の主権下に残されるが,ダーダネルス―ボスフォラス海峡地帯は,「独自の国旗・予算」をもつ国際機関「海峡委員会」の管理下に置かれる。オスマン帝国の財政は,イギリス・フランス・イタリアの代表と,決定権をもたないオスマン代表によって構成される「財政委員会」が全権をもつ。軍隊は,ジャンダルマを含めて5万700人以下とし,連合国の「軍事委員会」の監督下に置く。さらに,外国人のもつキャピトレーションなどの特権はすべて復活する。また,第一次世界大戦前のオスマン帝国の支配地は,イラク・パレスティナがイギリスの,レバノンを含むシリアがフランスの委任統治下に入り,ヒジャーズの独立,エジプトに対するイギリスの,モロッコ・チュニスに対するフランスの保護権を承認する。この条約によって,オスマン帝国は,ヨーロッパ部分で10分の1,アナトリア部分で3分の1以下に制限された。これは国家の基本である財政・軍事の権限を取り上げられるものであった。このため,各地で抗議行動が起こされ,アンカラの大国民議会は,条約の承認拒否を正式に表明した。このため,スルタン政府は,同条約の批准を強行できなかった。一方連合国側においても,フランス・イギリスに有利な分割案に対し不満が生まれていた。1921年1月10日,アナトリア内部へ進撃したギリシア軍が,イスメトの戦いで大敗北を喫したため,連合国は,アンカラ・イスタンブールの両政府をオスマン帝国代表として,ロンドン会議(1921年2〜3月)に招いて,セーヴル条約の一部修正を提案したが,アンカラ政府はこれを全面的に拒否した。結局,1922年11月20日,アンカラ政府がスルタン政府を廃止して唯一のオスマン政府として連合国とのあいだにローザンヌ講和条約を締結し,セーヴル条約は完全に否定された。