●西遼 せいりょう
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1132年より1211年まで存続した中央アジアの国家で首都はチュー川上流トクマク付近と推定される虎思斡耳朶(ふすおるだ)。遼の滅亡に際し西方に逃れた遼の一族の建国になることから,西遼と名づけられるが,イスラーム教徒はカラキタイと呼んだ。キタイは契丹であり,カラは強い謂とも,イスラームの光に服さない野蛮人を意味したともいわれ,彼らは仏教徒であった。最盛期には東西トルキスタンを押さえ,東西交易にも活躍するが,彼ら自身の記録に欠け,その歴史には不明な部分が多い。始祖は耶律大石(やりつたいせき)であり,彼は1122年,全軍の進撃の前に逃走した遼国第9代皇帝天祚帝(てんそてい)に代えて,帝室の耶律淳を天錫皇帝に擁立して燕京を守るが,天錫は金や宋への接近を図るうちに病没し,ついで徳妃を皇太后に立て称制させる。しかし燕京もほどなく落ち,捕えられた大石らは金の厚遇を得るものの,1124年には脱出し,内蒙古の天徳に依っていた天祚帝と合流する。ところが天祚帝が徳妃を殺害したことに加えて方針の違いなどもあり,天祚帝に不安を感じた大石は自立を決意し,200名ばかりの手勢を率いて,ひとまず回鶻路(かいこつろ)を外蒙古へと北上,建安軍節度の2万騎が守る,鎮州可敦城に入城した。大石は遼の威令の残るこの地で,敵烈(テレイト)・王紀刺(オンギラト)等18部族の部衆を糾合した後,その主力を西へ移す。その過程で一旦ビシバリクを奪って周辺のウイグル族を押さえ,さらにタルバガタイ草原へと進出,カラハン朝をうかがったと思われる。早くから地方政権の分立状態にあったカラハン朝は,西部はすでにセルジューク=トルコの勢力下に入り,北部は遊牧勢力との対立で疲弊していた。漢文史料によると,次に大石は西方深くセルジューク勢力下のカラハン朝の地に転戦し,サマルカンド−ブラハ間のケルマインに擬される起児漫で新たに即位,帰途ベラサグンに虎思斡耳朶を建てて改元し,西遼の正式な建国をみることになるがこのあいだは詳細ばかりか諸事件の経過についてさえも未確認な点が少なくないが,カラハン朝の内情が,耶律大石の介入を誘発した結果といえよう。大石はここに1132年,子孫に伝えるべき大王の称号として,グルハンを帯びる。ところでこれより先1131年,北庭支配の一過性を裏づけるように,高昌回鶻は捕えた西遼人を金に送っていたし,タリム盆地西部にもカラハン朝の一勢力があった。ついで西遼はこれらの地域への支配力扶植に国力を傾け,天山の南北を収めてから,改めてまた,西に向かったようである。すなわち,セルジュク朝が後援するサマルカンドのカラハン朝すなわちイスラーム勢力との衝突であり,1137年にはロクン=アッディン=マフムードの率いるカラハン軍をホージェントに破り,ついで1141年セルジューク朝の救援軍とカトワーンに戦うが,イスラーム側は3万を越す殉教者を数えて敗退し,フワリズムシャー朝の宗主権も西遼に移る。このような西遼の発展は,専ら大石の力量によっていたようで,彼を失った西遼には,みるべきものは少ない。1143年大石が死去すると,その子夷列が,母感天皇后塔不煙(タプヤン)の摂政のもと幼年で位をつぐ。1150年より親政した夷列も1163年に世を去り,妹の普速完(プスヤン)が承夫大后として14年間称制した後,1177年夷列の次男直魯古(チクル)が即位する。しかしその間西方領土からはフワリズムシャー朝が離れ,東方のウイグル族も逸早く新興勢力チンギスハンへとなびく。1208年西遼は,チンギス=ハンに滅ぼされたナイマン部のクチュルクの来投を容れ,直魯古は娘を与えて優遇するがやがてクチュルクに軟禁され,1211年失意のうちに世を去って耶律氏の血も絶える。クチュルクは西遼を奪ってグルハンを名乗ったものの,数年後にはモンゴルに滅ぼされる。西遼は強大な軍事力を擁し,商権を握っていたものの,先住のイスラーム教徒への配慮からか,少額の税を徴収した以外は,これといった干渉はせず,また宗教にも寛大でキリスト教の流布も伝えられる。