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●青年トルコ党 せいねんトルコとう

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 オスマン帝国末期,19世紀末から20世紀初頭にかけて立憲主義運動を指導し,のちに政権を握った政治結社をいう。青年トルコ党はヨーロッパ人による命名で,トルコでは「統一と進歩のための委員会」と呼ぶ。1865年に結成された「新オスマン人協会」によって,トルコの立憲主義運動が始まった。イスタンブルで295名の会員を集めひそかに発足したこの会は,イタリアのカルボナリ党から大きな影響を受けたといわれる。この会は1872年ごろに解散したが,立憲政治をめざす進歩派によって運動はつづけられた。1876年アブデュル=ハミド2世のスルタン即位直後,ミトハト=パシャの起草した憲法が公布され,立憲体制が樹立された。しかし,憲法にもとづき構成された議会は,経済問題を中心にスルタンと対立し,1878年スルタンは,ロシア-トルコ戦争を口実に憲法の効力を休止させ議会を閉鎖した。その後スルタンは専制政治を復活したが,西欧諸列強の侵略により帝国の領土喪失や経済的破綻が進んだ。このため,1889年イスタンブルの軍医学校の学生イブラヒム=テモが友人らと,ミトハト(憲法)復活・アブデュル=ハミド2世の専制政治打倒を目標として,「統一と進歩のための委員会」を結成した。これ以後のオスマン帝国の改革運動家を青年トルコ人という。「統一と進歩のための委員会」は,イスタンブルを中心にアルメニア人などと協力した活動を行ったが,1897年大弾圧を受け,イスタンブルでの活動は停止した。このため活動の中心は,パリのアフメト=ルザに移った。しかしスルタンの甥のプレンス=サバハッティン=ベイらもヨーロッパで活動を始め,1902年のパリにおける青年トルコ人会議の結果,前者の中央集権派と,後者の地方分権派に分裂した。一方,国内での革命結社も再び生まれ,ダマスクスにはムスタファ=ケマルの創設した「祖国と自由委員会」や,サロニカには「オスマン自由委員会」が成立した。1906年サロニカの組織は,「統一と進歩のための委員会」サロニカ本部となった。1908年,ニャーズィ=ベイらの若手将校の武装蜂起は,青年トルコ人運動を高揚させ,1908年7月23日「統一と進歩のための委員会」は,一方的に憲法の復活を宣言し,スルタンにこれを承認させ,国民議会の選挙を行って青年トルコ人の内閣を組織した。ここにアブデュル=ハミド2世の専制政治は打倒され,第2次立憲体制が成立した。1909年首都における反革命勢力を鎮圧し,スルタンを更迭して,近代化への改革を企てた。自由・平等・博愛の標語のもとに,信仰や人種による差別のない国民統一のオスマンリ主義を提唱した。しかし歴史的・社会的に因習の強い風土と少数民族の利害が複雑にからみあう多民族構成国家において,オスマンリ主義は政治理念としてはあまりに弱く,党自体の未熟さと分裂騷ぎも加わり,やがて行きづまってしまった。そして政治的実権は,旧来の老練政治家の手中にあり,中央集権派の「統一と進歩のための委員会」中央委員は,国会の議席を足場に政治的進出を企てた。1909年の3.31事件で,一時的に後退した「統一と進歩のための委員会」は,オスマンリ主義に代わり,全アジアに居住するトルコ族を糾合して,統一国家を形成するべきだとするパン=トルコ主義トルコ族を解体しトゥラン同胞の一つとしてほかのウラル=アルタイ語族と結ぼうというトゥラニズムへと傾き,そののち勢力を回復させた。そして,非トルコ系を圧迫するなど,その政策は運動時と大きく異なり独裁傾向を強めていった。やがてキリスト教徒に対する政策に失敗し,第1次バルカン戦争がおこると,その後勢力を回復させた。1913年クーデタによって政治的実権を握り,エンヴュル=パシャ・タラート=パシャ・ジェマル=パシャの3人が三頭政治を行い,やがて帝政ドイツと結んでオスマン帝国の第一次世界大戦への道をつくった。敗戦後,党は機能を失い,一部の指導者は国外へ脱出した。改革を推進した青年トルコ人運動の精神はさらに引き継がれ,ムスタファ=ケマルらのトルコ革命の源流ともなった。

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