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●青年団 せいねんだん

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 青年会ともいう。青年団という名称は,大正期以降に普及したものであるが,青年会は,1880年(明治13)に設立されたキリスト教青年会YMCA)を嚆矢とするもので,そのほか仏教青年会のごとく宗教や思想団体にも用いられてきた。しかし青年団はもとより,青年会の語も一般には明治以降に一定の地域を単位として組織された青年集団を意味する場合が多い。

【地域青年団の組織化】成立の契機や過程にはいくとおりかあった。すなわち,[1]江戸時代以来の伝統的な青年集団としての若者組が,明治初期にいったん○○社という名称の組織に改組され,さらにそれが中期以降に青年団となったもの。[2]若者組が消滅したのち,明治中期に夜学会・同窓会・学習会などが組織され,その後それらを母体として青年団がつくられたもの。[3]明治中期から大正期にかけ,それまで存続していた若者組を改組して青年団を結成したもの,などであり,一般には[3]の事例が多い。明治20年代初めの青年団は,地域の青年有志や小学校の教師が文明開化の風潮に呼応して組織したもので,学習会としての性格が強かった。しかし日清戦争からとくに日露戦争時になると,恤兵活動や銃後活動を目的とした青年団が各地に数多く発生した。結成にあたっては青年自身によるもののほか,教師・僧侶・神官,あるいは村長などの地域の名望家による指導も少なくなかった。

【政府の青年団対策】以上のような各地の動向に注目した政府当局は,青年活動家山本滝之助の提言ともあいまって,青年団の育成と活用を日露戦争後の地方改良運動の一方針として採用した。そして地方行政当局を通じ,青年団の組織化および指導を勧奨するとともに,内務省は風俗改良・産業振興など,文部省は補習教育・通俗教育などの実績を基準として,優良青年団の表彰を相次いで行った。従来の青年団は,大字・区・部落などと呼ばれるかつての藩政村単位のものであったが,行政当局の指導によりそのころから町村や郡単位で組織され始めた。ついで1915年(大正4),内務・文部両省は青年団の修養機関化,および壮丁の予備教育機関化という2大方針を打ちだした。後者は第一次世界大戦を機に,在郷軍人会との関連で青年団の軍事化を企てた田中義一ら軍部の意向にもとづく施策であった。軍人としては,乃木希典らが明治末からすでに青年団の活用を勘案しており,田中がその構想を発展させたのである。田中はまた,翌1916年に結成された中央報徳会青年部(同年に青年団中央部と改称)の理事となり,全国青年団の統制をはかったが,田中ら軍部の企ては大正デモクラシーの風潮のもとで世論の反対にあい,不成功に終わった。一方,青年団の修養機関化方針はそののちも長く継承された。1920年(大正9)には,時の皇太子から青年団に対する令旨が下され,皇室と青年団との関わりが強められた。

【青年団の全国組織】1921年(大正10),全国の青年団による寄付金で日本青年館が建設され,同時に官僚主導型の青年団指導機関が設けられたが,そのころ民間からも青年団の全国組織化を要望する声があがり,1925年(大正14)にいたって半官半民的な指導体制をもつ大日本連合青年団が日本青年館を本部として成立した。その後,1939年(昭和14)に朝鮮・台湾・樺太をも糾合して大日本青年団と改組・改称し,ついで大政翼賛運動のなかで,1941年(昭和16)には大日本連合女子青年団および二つの少年団体と合同して大日本青少年団となった。しかし第二次世界大戦の終末期にあたる1945年(昭和20)5月,大日本青少年団学徒隊に編入されて解散した。青年団の事業は,昭和初期は修養と郷土振興に,日中戦争のころからは銃後活動に,それぞれ重きが置かれた。戦後は,まもなく各地で青年団が復活し,1951年(昭和26)には日本青年団協議会が結成されこんにちにいたっている。なお,かつての青年団は男女別組織であった。大日本連合女子青年団の結成は1927年(昭和2)のことであるが,その活動は活発なものではなかった。

〔参考文献〕佐藤守『近代日本青年集団史研究』1970,御茶の水書房

平山和彦『青年集団史研究序説』上・下,1978,新泉社

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