●靖難の変 せいなんのへん
アジア 中華人民共和国 AD1399 明
1399〜1402 明の成祖永楽帝が,甥の第2代皇帝建文帝を武力で追い払って即位した事件。若くして即位した建文帝が,黄子澄・斉泰らの意見に従って周王・斉工・代王・岷王を廃して庶人とし,あるいは湘王を自殺させるなどの強硬な諸王削藩政策を実施したのに対して,燕王朱棣はこの政策が自分に及ぶことを察知すると,1399年(建文1)7月,姚広孝の策に従って,君側の奸を除くことを名目として挙兵した。両軍はたがいに一進一退を繰り返したが,1401年(建文3),建文帝側近の宦官の内応により燕王の軍は一挙に南下,翌年6月についに京師を攻略した。入城した燕王は即位して太宗と称した(嘉靖年間に成祖と改めた)。太宗永楽帝の,方孝孺を初めとした建文帝の遺臣に対する処置は凄惨をきわめ,永楽の瓜蔓抄として知られる。この事件が靖難と呼ばれるのは,永楽帝が兵をおこすにあたって出現した北方守護神である真武神(玄武神・玄天上帝あるいは北極佑聖真君ともいう)に君側の難を靖んじることを誓約した,とすることによる。これは靖難の変を,真武神が支持した聖戦であると正当化するために,姚広孝(道衍)が案出したものであろうか。この事件の歴史的意義はいまだ定まらないが,洪武帝の政治体制が全国支配の体制に脱皮しきれず,江南およびそれ以南の地に人材・経済の基盤を置く南方政権としての性格を色濃く残しながらも,個人的才覚によって全国支配を達成したという矛盾が,洪武帝の死によって露呈したことが背景の一つに挙げられよう。そのために,建文帝は政権基盤を補強する江南重視政策を展開する一方で,彼にとっては多くが尊属にあたる北方諸王が,皇帝と対抗する勢力となることを未然に防がねばならなかったのである。