●西南戦争 せいなんせんそう
アジア 日本 AD1877 明治時代
1877年(明治10)におこった西郷隆盛を中心とする明治期最大の内乱。明治政府の外交上の一大案件は朝鮮との修好であったが,朝鮮は国王の父大院君が実権を握り排外鎖国主義であったから応じなかった。1873年(明治6)8月西郷を遣韓大使として談判することに閣議は決定したが,9月欧米巡視から帰国した岩倉具視・大久保利通は,内治の充実を先とし外征は後にすべしと反対し,ついに征韓論は破れた。そこで10月征韓派の西郷・副島種臣・後藤象二郎・江藤新平らは参議を辞して下野した。西郷の下野帰国とともに鹿児島出身の近衛兵や官吏数百人が辞職帰国。西郷は桐野利秋・篠原田幹・村田新八らと謀って私学校を設立して,他日国難に殉ずべき子弟の教育をめざした。県令大山綱良は西郷に協力し,私学校の経費を県費から出し,また県内各地の区長や警察官に私学校徒をあてたので,木戸孝允は〈鹿児島県は半独立国の観あり〉と非難した。1877年(明治10)に至るまでの国内情勢は,地租改正反対の三重・愛知・堺・茨城など各県の農民大一揆があり,一方また徴兵令・廃刀令・秩禄処分に対する士族の反感が全国にみなぎっていた。征韓論下野派のうち板垣・後藤・副島らは1874年(明治7)1月民撰議院設立建白書を提出し,以後自由民権運動を展開,一方江藤は翌月佐賀の乱をおこし,つづいて1876年10月には熊本の神風連の乱・秋月の乱,前原一誠の萩の乱がおこった。全国の不平士族は西郷の蹶起を待望したが,彼ははやる私学校徒を抑えて立たなかった。ところが1877年(明治10)1月政府は中原尚雄ら警視庁巡査21人を帰郷させて私学校徒と諸郷士族の離間と県下の政情視察をさせる一方,政府所管の弾薬武器を大阪に移転しようとした。県下の政情視察が西郷刺殺と私学校徒にうけとられ,憤激した私学校徒は運搬中の武器弾薬を強奪した。西郷は事ここに及んでは情義上私学校徒と行動をともにすることとし,2月17日〈政府に尋問の筋あり〉と唱えて率兵上京に発足,風を望んで九州各地の不平士族も加わった。政府は有栖川宮熾仁(たるひと)親王を征討総督に,陸軍卿山県有朋・海軍大輔川村純義を参軍に任じ,熊本城を死守する鎮台司令官谷干城(たてき)の援軍を向けた。熊本城攻囲中の薩軍は,南下する官軍を田原板・山鹿に迎撃し3月4日から20日まで激戦を展開したが敗退,一方また八代から進撃してきた官軍の衝背軍に敗れ,4月中旬ついに城の囲みを解き,以後は人吉・都城・宮崎に本営を移して転戦したが,8月中旬には長井村に追いつめられた。しかし官軍の厳重な包囲網を可愛嶽越えの強行軍で突破して鹿児島に帰り城山に拠り抗戦したが,9月24日朝,官軍の総攻撃により西郷以下の諸将戦死して8カ月にわたる大乱は終わった。この乱で最強軍団といわれた薩摩士族軍団が百姓兵らの鎮台兵に敗れたことは,以後武力による士族反抗をやめさせ,自由民権運動へ転換させた。さて官薩両軍の戦力を比較するに,官軍は紙幣を乱発して4,156万7,726円の膨大な軍備に物をいわせて砲弾7万3,700発余,小銃弾3,489万3,500発余を使い,田原坂の激戦では1日平均32万発を使ったというから,旅順第2回攻撃戦の平均30万発を上廻る凄い火力戦であった。それに比べて薩軍の戦費は県庁その他よりの流用金額70余万円と推定され,始終資金不足に悩んでいたが,後には6月西郷札を日向で発行して物品の調達に充てた。装備は4斤山砲28門,12斤砲2門,臼砲大小30門で,銃はおおむね旧式銃で銃丸は出発の時150万発をもっただけで,始終軍資・兵粮・弾薬の欠乏に悩んだ。兵力は官軍は5万8,000人の陸軍と2,200人の海軍で,なかには士気旺盛な警察斬込隊もいた。一方,薩軍は私学校徒1万3,000人の精鋭軍と県下徴募兵1万人(脅迫徴募が多い),これに熊本隊など九州各地の党薩隊7,200人,合計3万人で,“好将軍ありて好参謀なき”の無謀な戦いであった。
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