●政党内閣 せいとうないかく
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議会,とくに下院(衆議院)に勢力を保持する政党を基礎に組織された内閣。議院内閣制と表裏一体の関係にあり,議会の信任にもとづいて政治運営にあたる。政党内閣が最も典型的な形で発展をみたのはイギリスで,17世紀後半以降,ホイッグとトーリーの両党派がたがいに勢力を競い合ったが,のちにそれは,自由党と保守党による二大政党制となり,18世紀末から19世紀初め,議院内閣制の慣行が確立されるとともに,政党内閣による政治運営が定着した。現在では,イギリスをはじめ西ドイツ・日本など議会制民主主義の制度を取り入れている多くの国々の内閣が,政党内閣の形態をとっている。ただし,アメリカ合衆国のように行政府の首長たる大統領が国民の選挙により選ばれ,議院内閣制を採用していない国では,政党政治が行われていても,それを政党内閣とは呼ばないのがふつうである。また,社会主義諸国やファシズム国家における一党独裁体制の場合も,政党が政権を掌握していても,政党内閣という概念にはあてはまらない。【日本における政党内閣の成立】明治維新後,立憲政治・議会制度の建設の構想が朝野で論議されるなかで,1870年代末には,福沢諭吉をはじめ三田派の言論人たちにより政党内閣制の採用が主張されるようになった。政府内部でも1881年(明治14)3月,参議大隈重信が提出した意見書は,イギリスをモデルとした議会政治の早期実現を唱え,政党内閣による政治運営を主張している。しかし,同年7月の右大臣岩倉具視の意見書においては,プロシア流君権主義の採用が強調され,政党内閣制は否定された。政府首脳の多くは岩倉の意見を支持し,伊藤博文を中心として起草され,1889年2月発布された大日本帝国憲法(明治憲法)にはプロシア流君権主義の原則が盛り込まれ,議院内閣制は制度化されなかった。憲法発布にあたって黒田清隆首相らは,政府は政党の外に立って政策遂行にあたるべきことを説き,政党内閣を否認した(いわゆる超然主義の表明)。しかし,憲法上,議会に予算議定権および立法権が認められている以上,現実には,政府が議会(衆議院)の多数党を無視して政治運営にあたることは困難であった。しかも,憲法には内閣の組織と構成についてなんら明文上の規定がなかったから,民党勢力の要求する政党内閣が実現するかいなかは,憲法の運用の問題であった。超然主義の実行が困難であることを自覚した伊藤は,第2次伊藤内閣のとき,衆議院の第一党たる自由党と提携して連立内閣をつくった(1898)。そして,1898年には,伊藤の強い推薦で憲政党の第1次大隈内閣(隈板内閣)が成立した。これは陸軍・海軍両大臣を除く全閣僚が憲政党員からなる日本最初の政党内閣であった。ついで,1900年には憲政党の旧自由党派を中心に,伊藤を総裁として立憲政友会が結成され,衆議院の第一党となった。そしてこれを基礎に第4次伊藤内閣が発足し,ここに明治憲法下における政党内閣が,いわば認知されたのである。
【政党内閣の発展と挫折】明治末期から大正時代にかけて,大正デモクラシーの風潮を背景に政党は勢力をのばし,1918年(大正7)9月,第一次世界大戦末期,立憲政友会の原敬内閣が成立した。原内閣は閣僚の大部分が政党員であっただけでなく,原が衆議院に議席を有する日本最初の首相であるという点で,政党内閣として画期的存在であった。それ以後1932年(昭和7)5月,五・一五事件で立憲政友会の犬養内閣が崩壊するまで,13年8カ月,11代の内閣のうち8代,11年8カ月が,政党内閣であった。とくに,1924年6月護憲三派の加藤高明内閣成立以来,6代の政党内閣がつづいている。このように政党内閣は“憲政の常道”として定着し,政治運営の中心となった。内閣更迭に際し,後継首相推薦に発言権をもつ元老のうちただ一人存命していた西園寺公望は,イギリス流の立憲政治を理想とし,政党内閣に好意的であった。しかし,憲法上,議院内閣制は制度化されておらず,軍部・枢密院・官僚などの政党外・議会外勢力は,なお大きな政治的発言力を保持して,政党内閣による政治運営に介入した。政党相互の対立の激化とともに,野党はしばしば政党外・議会外勢力と手を結んで,政治・与党を攻撃して倒閣をはかった。普通選挙制(男子)は実現し,有権者は大幅に増加したが,それは政治資金の巨額化に伴う“政治的腐敗”の増大をも意味した。政党間の政権交替は,総選挙という“国民の審判”を通じて行われるのが本来の形であるが,この政党内閣時代には,議会外勢力と結んで倒閣を果たした野党が,少数党のまま組閣し,与党という有利な条件のもとでの総選挙に勝って多数党を形成するというのが,政権交替の基本的パターンとなった。政党内閣は内部にこうした困難な問題をはらみつつ1930年代を迎えたが,中国問題の深刻化,世界恐慌の影響下の経済危機,軍縮に対する軍部の反発など,“内外の危機”に直面して,これに十分に対処しえず,軍部・国家主義団体などを中心に“政党政治打破”の気運が高まった。そして,1932年5月,海軍青年将校らによる犬養毅首相の暗殺(五・一五事件)を契機に,政党内閣は終わりをつげ,以後,第二次世界大戦の敗北にいたるまで,復活することはなかった。
【日本国憲法下の政党内閣】第二次世界大戦後の民主化のなかで,大戦中解散された政党は次々と復活し,また新しい政党も相次いで結成された。1945年12月婦人参政権が認められ,有権者は大幅に増大した。1946年4月,戦後最初の衆議院議員総選挙が実施され,第一党の自由党を与党に吉田内閣が成立した。明治憲法に代わって1947年5月日本国憲法が施行され,衆議院・参議院からなる国会が国権の最高機関となった。内閣総理大臣は国会議員のなかから国会によって指名されることが定められ,内閣の国会に対する責任も明確になり,議院内閣制が制度化された。このような議会制民主主義の確立とともに,政党は政治運営の主役となり,政党内閣制が定着した。日本国憲法施行直後,一時,日本社会党を中心とする連立内閣が出現した時期もあったが,まもなく保守政党の手に政権が移り,その後は,終始,保守政党により政権が担当されている。とくに,1955年保守合同により自由民主党が結成されて以来,30年にわたって同党が衆参両院で絶対多数の議席を独占し,自由民主党内閣がつづいている。1983年には新自由クラブが政権に参加し,自由民主党との連立内閣をつくったが,両党の勢力の差は非常に大きく,事実上は自由民主党の単独政権といってよいであろう。
〔参考文献〕升味準之輔『日本政党史論』1965〜68,東京大学出版会
辻清明・林茂編『日本内閣史録』1982,第一法規出版