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●青鞜社 せいとうしゃ

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 1911年(明治44),平塚らいてう(雷鳥)の主唱によって結成された。女性の近代的自我の確立をめざした女性だけによる文芸結社で,機関誌「青鞜」を発行。青鞜の名は,18世紀ロンドンで開かれていたサロンに集った知的関心に富んだ女性たちがはいていた靴下が青かったことから,彼女らを揶揄して呼んだ名称ブルー=ストッキングが由来で,生田長江の発案によって採用された。「青鞜」創刊号に掲げられた「青鞜社概則」第1条に〈本社は女流文学の発達を計り,各自天賦の特性を発揮せしめ,他日女流の天才を生まむ事を目的とす〉とあるように,女性の自我の覚醒と人格の独立,思想・感情の自由を文学の分野で開花させるべく,「青鞜」の発行のほかに研究会や講演会を開くことを主旨として,平塚のほか木内錠子・中野初子・物集(もずめ)和子・保持研子(やすもちよしこ)の5名の発起人によって創立された。発足時の社員は荒木郁子・岩野晴子・木村嘉代子・加藤みどり・上代たの・神崎恒子・田村俊子・野上弥生子(2号で脱退)・小野仙子ら18名,賛助員としては,与謝野晶子・長谷川時雨・岡田八千代・加藤籌子・国木田治子・小金井喜美子・森しげ子ら,著名な女性作家を配した。その後も社員数は順調に増え,岡本かの子・尾竹紅吉・伊藤野枝・西崎花世・神近市子らが参集した。また,生田長江阿部次郎高村光太郎らが社外にあって支援をつづけた。

【機関誌「青鞜」】1911年に創刊され,1916(大正5)年2月に廃刊になるまで,月刊で計52冊が刊行された。前記社則の主調のもとに,小説・短歌・評論・随筆などを掲載した。思想史的には,女性への封建的抑圧の撤廃と自我の解放への志向が,当時の反自然主義・耽美派・白樺派の台頭へと移行しつつあった文芸思潮と合致し,いわゆる“新しい女”の誕生にその第一の価値を置いた,もっぱら理想主義的な内面的解散をめざしたものであった。らいてうによる創刊の辞〈元始,女性は太陽であった〉は,女性の個我,天賦の才の発展を阻害する男の専制を排除し,太古,尊崇の対象であった「女性」の人間性を回復させる必要を説き,このタイトル自体がその後の婦人運動・女性解放運動の一つの象徴ともいえることばになった。封建的秩序・男尊女卑の道徳が支配的ななかで「青鞜」が主張した女性の生き方は,大きな反発と好奇の目で迎えられた。らいてうや尾竹紅吉がカフェで「五色の酒」を飲んだり(五色の酒事件),遊廓の街吉原を見学したり(吉原登楼事件)といった些細なことが,誇大にあるいは歪曲されて報道され,神近市子青鞜社社員であるがゆえに教職が奪われるなど,社員への社会的圧力は無視できないものだったし,雑誌自体も数回にわたる発禁処分を受けた。当初,文芸誌として出発した同誌も,そういう状況のなかで,しだいに女性解放のための啓蒙誌として性格をおびるようになる。その間,社の責任者をらいてうから引き継いだ伊藤野枝は〈無規則,無方針,無主義,無主張〉の編集方針を掲げ,〈女流の天才〉のためにではなく,一般の女性のために誌面を解放し,野枝自身の個性ともあいまって女性問題の評論誌という性格をよりいっそうはっきりと打ち出した。野枝編集第2号の野枝自身による論文「貞操についての雑感」は,青山菊栄とのあいだに,公娼制度に関しての論争をひきおこした。しかしこの熱意も,以前からの経営悪化を好転させることができず,野枝と大杉栄との恋愛も原因して1916年廃刊にいたった。

青鞜社の遺産】文芸団体として発足した同社だったが,文芸作品とりわけ小説は習作の域を脱しきれていない。その本領は,らいてう・野枝・山田わからの評論や随筆に発揮されており,そこで展開された抑圧的な既成の通念と制度に対する果敢な抵抗精神は,女性解放運動萌芽期に多大な影響を与え,らいてうが市川房枝らと新婦人協会を結成し,野枝が大杉とともに無政府主義運動に入るなど,解散後も活躍をつづける人的な遺産を残した。

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