●井田法 せいでんほう
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中国,周代に行われたと伝えられる土地制度。『孟子』『周礼』などに記されるがその詳細はそれぞれ異なる。井田法を伝える最も早い文献は『孟子』トウ※注1※文公章句上である。孟子は『詩経』小雅の大田編〈わが公田に雨ふり,ついにわが私に及ぶ〉の一句を引用し,周代の田制には公田と私田の別があり,900畝の正方形の土地を井字形に9等分し,周囲の8田を8家に分配し,中央の1田を共同耕作してその収穫物を租税とする制度であったと主張した。一方『周礼』においては,小司徒条に〈九夫井をなし,四井邑をなし……〉と記され,同じく900畝の土地を9等分するとはいえ,公田が存在せず,9夫に各1田を分配する制度(井牧法)となる。また遂人(すいじん)条では〈十夫溝あり……百夫洫有り……〉と記され,井字形の土地区分は影をひそめ,1夫を単位とする十進法に従い,溝・道路によって土地を区画する制度(溝洫法)となる。さらに大司徒条には,耕地をその地味によって上地(連作地)・中地(1年間休閑地)・下地(2年間休閑地)に分かち,支給量を土地の場合は100畝,中地は200畝,下地は300畝とする規定がみえ,小司徒・遂人条にもこれとやや異なる土地支給の規定がみえる。このように異なる所伝を統一的に説明しようとしたのが『漢書』食貨志であり,そこではさらに〈年二十にして田を受け,六十にして田を帰す〉という田地の還受が規定された。後世,井田法は周代に実在した理想の土地制度とされ,王莽(おうもう)の王田や北魏以後の均田制の模範とされたが,胡適(こせき・こてき)の『井田辨』(1921年,民国10)がこれに疑問を呈して以来,その存否をめぐって論争が展開された。西周期の金文に「1田」「50田」のような表現がみられ,当時なんらかの土地区画が存在したであろうことは想定できるとしても,文献に伝えるような整然とした土地区画が存在したとするのは疑問視される。しかし,現在においても井田法の性格や存否については論争がつづき,いまだ定説をみないのが現状である。
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