●製鉄 せいてつ
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鉄は“産業のコメ”といわれるように、代表的な素材産業であり、広範な諸産業との連関性をもつ重要産業である。また代表的な装置産業であり、とくに現代の製鋼一貫製鉄所は巨額の設備投資を必要とし、世界的に巨大企業によって担われている。日本は現在、ソ連についで世界第2の鉄鋼生産国であり、輸出額は世界第1位である。日本における製鉄の歴史は、近代以前には砂鉄を原料とする独自の製鉄法が発達したが、幕末開国とともに西ヨーロッパの近代的製鉄技術を導入した。近代製鉄業は困難を伴いながらも、急速な発展を遂げて今日にいたっている。
【古代・中世の製鉄】日本での鉄器の使用は縄文時代末・弥生時代初期に始まるが、すべて朝鮮半島・中国からの輸入であり、国内生産が一般化するのは古墳時代、とくに6世紀後半からである。その技術は朝鮮半島からもたらされたが、砂鉄を原料とし、しだいに日本独自の発展が行われた。古代・中世期には野たたらといわれ、炉は小型で構造も簡単であり、長期間の使用に耐えられず、原料・燃料を求めて移動した。砂鉄を溶融させる高温を長時間持続できず、製品の品質も低かった。
【近世の高殿(たかどの)たたら】室町時代末から江戸時代初期(16〜17世紀)にかけてたたら製鉄に画期的な変化がおこる。野たたらから高殿たたらへの発展である。その主要な内容は、[1]炉が大型化し、高度な炉床防湿設備をもつものとなり、高殿と称する工場家屋を備える恒久的設備となった。それに伴い炉の稼動日数が野たたらの年間100日から通年となった。[2]送風用の足踏みふいごが17世紀末天秤(てんびん)ふいごに変わり、強風を送ることによって炉内温度を高め、生産性・品質が著しく向上した。[3]従来のケラオシ※注1※に加え銑押(ずくおし)の製鉄法が完成し、大量の銑鉄が得られるようになった。[4]原料面では、17世紀初頭に銑穴流(かんなながし)という一種の比重選鉱法が導入され、原料品位を高めた。[5]高殿たたらを中心に、選鉱・精錬・鍛錬(大鍛冶)の3部門に分化し、社会的分業を形成した。生産量は銑押しの場合、4昼夜で銑鉄1,500貫前後(5〜6トン)、イギリス18世紀前期のコークス高炉で日産1トン程度であるからその水準に匹敵する。1600年代にイギリス東インド会社の平戸(ひろど)商館長であったリチャード=コックスは、日本の鉄はイギリスのものに比べ品質優良価格低廉で、鉄を日本へ輸出することはニュー・カッスルヘ石炭を送るのと同じほど愚かなことだと述べている。生産形態においても飛躍的発展がみられ、近世中期以後、中心地である山陰地方では、常用労働者1,000人、年産額1,000トンを超える巨大マニュファクチュアが現れた。また製鉄業の発展を基礎として農・工業の発達と全国市場の形成がみられた。
【近代製鉄業の成立】幕末開国によって世界資本主義に組み入れられた日本にとって、外圧はまず黒船に象徴される軍事的圧力であり、それへの対抗策の一つとして幕府・雄藩による欧米軍事工業の移殖が行われた。近代製鉄業もその一環であった。洋式高炉はまず鹿児島藩の集成館で建設され(1852年着工、1854年7月操業)ついで幕府により箱館に建設されたが、日本の近代製鉄業の成立に大きく寄与したのは、水戸藩による南部・釜石鉱山の高炉製鉄である(1857年5月着工、12月操業)。明治維新以後、釜石鉱山は官営となったが多くの技術的難点を抱え、1882年いったん廃止となった。1884年田中長兵衛に払い下げられ、釜石鉱山田中製鉄所となって生産は軌道に乗り、1894年銑鉄生産額1万2,000トンを超えて中国地方のたたら製鉄の生産額を上回った。しかし、同年の輸入額は3万6,000トンであり、産業革命で急増する需要はおもに輸入に依存していた。近代製鉄業の本格的成立は1910年の官営八幡製鉄所の操業に始まる。日清戦争後経営の一環として鉄鋼自給が企てられ、当時の最新技術を導入して鉄鋼一貫製鉄所がつくられた。日露戦後には軍備拡張と民間需要の増加によって民間製鉄企業も発達しはじめた。神戸の鈴木商店(現在の神戸製鋼所)・川崎造船所(現在の川崎製鉄)・室蘭の北海道炭鉱汽船(現在の新日鉄室蘭製鉄所)・日本鋼管・住友鋳鋼所(現在の住友金属工業)など現在の主要企業がこの時期に発足した。一方、中国地方のたたら製鉄も技術改良によって対抗、この完全な衰退は大正末、1920年代のことである。
【両大戦間期の製鉄業】第一次世界大戦期は鉄鋼需要にもかかわらず輸入が減少したため、製鉄業は空前の好況となり中小の新企業が続出した。しかし戦後の反動恐慌によって弱小企業は淘汰され、その後も不況がつづき輸入圧力にも悩まされた。当時日本の製鉄企業は巨大な官営八幡製鉄所を除けば、民間企業は大企業でも銑鉄のみを生産する単純製銑企業か銑鉄のみを買い入れて製鋼・圧延を行う企業であり、とくに単純製銑企業は輸入銑に圧迫された。これに対処するため各種のカルテルが結成され、政府の保護(関税改正や補助金)も加えられ、昭和に入って製鋼部門は輸入に対抗できるようになり、1932年の関税改正で完全自給を達成した。1931年満州事変後の軍事工業化のなかで、その基盤となる鉄鋼自給のため官営八幡製鉄所を中心に製鉄大合同が行われ、1934年国策会社日本製鉄株式会社が成立した。参加した民間企業は輪西製鉄・釜石鉱山・富士製鋼・東洋製鉄・九州製鋼・三菱製鉄の6社であり、製鉄業における独占体制が確立した。その後、戦時経済体制への突入とともに生産額は急増し、1940年銑鉄557万トン、粗鋼685万トン、フランスを抜いてアメリカ・ソ連・ドイツ・イギリスについで世界第5位となり、日本製鉄以外にも日本鋼管など銑鋼一貫企業に発展するものも現れたが、敗戦とともに一時壊滅した。
【戦後の製鉄業の発展】戦後、主要工場が賠償指定工場となり生産はストップしたが、アメリカの対日政策の変化による賠償指定の解除、傾斜生産方式の採用により重点産業に選ばれたこと、1951年に始まった朝鮮戦争の特需などによって急速に復興し、1953年には生産額は戦前の最高水準を越えた。1950年に日本製鉄の分割により八幡製鉄と富士製鉄が成立し、これに日本鋼管を加えた3社が銑鋼一貫企業であったが、1953年に川崎製鉄が千葉に最新型の銑鋼一貫製鉄所の建設を開始したことから、住友金属・神戸製鋼も銑鋼一貫体制の建設に乗り出し、先発3社も加わり外国から最新技術を導入した大型設備投資競争が展開された。その主要な内容は製銑工程では高炉の大型化、製鋼工程では平炉からLD転炉への転換、圧延工程ではストリップ=ミルの採用であり、新鋭大型高炉→LD転炉→ストリップ=ミルという最新の生産設備をもつ銑鋼一貫製鉄所が続々と建設された。しかも海外からの原料輸入のため、臨海製鉄所であり、大型専用船の発達と専用荷役設備をもつことによって世界最高の生産力をもつにいたった。生産額は1960年にイギリス・フランス、1960年代半ばに西ドイツを抜き、1980年代に入ってアメリカを抜きソ連についで世界第2位、輸出は1969年に西ドイツを抜いて世界第1位となった。1970年八幡製鉄と富士製鉄が合併して成立した新日本製鉄は日本最大の生産会社となり、大手5社による寡占体制が確立した。1973年の石油ショック以後、不況による国内需要の減退がつづき、輸出もアメリカとの経済摩擦をひきおこして輸出自主規制をせざるをえなくなった。とくに第2次石油ショック後の世界不況により生産額は1億トンを割り込み、旧式設備の廃棄・製鉄所の統廃合・人員整理などが進められている。最近世界経済の好転によってややもち直しているものの、プラスチックやアルミなどの代替素材による需要食込みや韓国・台湾・ブラジルなどの中進国の製鉄業の急速な発展による海外市場における競争や輸入増加に直面している。
〔参考文献〕『採鉱と冶金』講座日本技術の社会史第5巻、1983、日本評論社
飯田賢一・大橋周治・黒岩俊郎編『鉄鋼』現代日本産業発達史IV、1969、交詢社出版局
