●姓族分定 せいぞくぶんてい
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姓族とは,中国で名望ある大族のことをいい,家格の高い有名な家柄をさし,名家・名族ともいう。姓族分定が問題になったのは北魏時代である。いわゆる五胡の動乱を避けて,華北の名門士族の多くは江南に移ったが,華北に残留した豪族は,長い動乱期を通してその家系と勢力を維持し,実力で地方の秩序を保ち,相互に通婚して社会的地位を固め,名族となっていた。北魏は,鮮卑(せんぴ)族の武力だけでは華北を支配できないので,これらの名族と協調する必要があった。名族の有力者崖浩は,華北を統一した北魏の太武帝の宰相となり,当時の江南の宋朝における姓族中心の政治を行うため,姓族の分明をはかったが,漢族中心主義で失敗した。その後,孝文帝は,漢化政策の一環として姓族分定に意を用い,496年(太和20)に実施した。漢族については,天下に冠絶する4姓(博陵の崔氏・范陽の廬氏・榮場の鄭氏・太原の王氏)のほか,その家3世にわたる官歴を基準として家格を定め,鮮卑族については,穆・陸・賀・劉・樓・于・ケイ※注1※・尉の8姓のほか,その出自と3世にわたる官歴を基準として家格を定めた。こうして家格の高下を定めて,貴族の格づけを行い,漢族・鮮卑族の両族相互に通婚させ,貴族を中心とする社会制の上に,両族の境域を全廃しようとした。この姓族分定は,国の力によって推進され,官歴が重視されたことに特色があり,北魏における貴族制の形成を推進させた。〔参考文献〕岡崎文夫『魏晋南北朝通史』1932,弘文堂
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