●聖書(日本) せいしょ
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【キリシタン時代の聖書】1849年(天文18)フランシスコ=ザヴィエルによってキリスト教は伝えられたが,カトリックはプロテスタントと違い,聖書を信仰の唯一の拠り所とせず主観的解釈に陥らぬよう信徒に聖書を与えなかったので,キリシタン時代に和訳聖書は存在しないと考えられた時期もあった。しかし,宣教師及び関係者たちの報告や諸記録はその翻訳の事実を伝えており,主日祝日に朗読される典礼書や教理書観想書に部分的であるが福音書と書簡よりの抜萃の翻訳が現存している。伝えられるところでは,まずザヴィエルとマラッカで会い,彼に日本布教を思い立たせた日本青年ヤジロウが,1648年受洗後に書き留めた『サンマテウスのエフンゼリヨ(マタイ福音書)』「十のマダメントス(十戒)」がある。またザヴィエルと来日した修道士フェルナンデス(1525〜68)の四福音書の全訳(1563年肥後度島で焼失)やフロイスによる典礼書にある福音書の3分の1ほどの抄訳などのほかに京都版の『新約聖書』があったことをイギリス貿易船隊長のセリウスは『日本航海記』に記している。現存するものには,ザヴィエルについで日本教会の基礎をつくったヴァリニャーニの編した『日本のカテキズモ』(教理入門書,ラテン語,1586年リスボン刊)の訳文らしいものがエヴォラ図書館の古屏風の下張りに残っており,そのなかに聖書の短い章節の訳がある。この外観想書『スピリツアル修行』(ローマ字本,1607年長崎刊)のなかに四福音書の章句から構成された『御主(あるじ)ゼスキリストの御パション(受難)の事』がある。これは天正使節の帰国とともに来日したバレト(1562?〜1620)が日本語学習のためすでにつくられていたキリシタン物語・聖書訳・聖人伝をローマ字で書写した「バレト写本」(ヴァティカン図書館蔵)のなかにもある。この写本には『ドミニカ(主日)の抜書』もあり,主日祝日に読まれる福音書の聖句が3分の1ほど訳されている。ほかに,天草本の教義書『どちりなきりしたん』・信仰教書『こんてんつすむんぢ』(ケンピス『キリストに倣いて』の訳)などに少数の部分訳がある。これらの翻訳の原本はカトリックの標準聖書であるラテン語訳『ヴルガタ(共通)版』である。【幕末期海外和訳聖書】江戸後期とくに1720年(享保5)漢籍科学書輸入が許可され19世紀に入ると漢訳聖書も秘かに学者の眼に触れたり,オランダ語聖書や註解書が蘭癖大名に読まれる機会も生じた。それらの知識は地理書神道書などに影響を与えたが,伝道のための本格的な翻訳は中国および琉球の宣教師たちによって行われた。[1]ギュッツラフ訳『約翰(よはね)福音之伝』『約翰上中下書』 この最初のプロテスタント和訳聖書はプロシア人中国宣教師によってマカオで訳され翌1837年シンガポールのアメリカ海外伝道会(ABCFM)の印刷所堅夏書院より刊行された。翻訳にあたって,メドハウストの編んだ『英和語彙』が用いられたほか,尾張小野浦出身の宝順丸漂流民(1832,天保3遭難)の岩吉・久吉・音吉らが協力した。日本語に未熟な外人と無学な日本人水夫との外地での訳は,冒頭の文章〈初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった〉(聖書協会口語訳)を〈ハジマリニカシコイモノゴザル,コノカシコイモノ,ゴクラクトモニゴザル,コノカシコイモノハ ゴクラク〉とした。訳語が珍妙である上,原文の語順のままで日本文として整えられず意味の取れぬ所も多い。しかし,後につづくウィリアムス・ベッテルハイム・ヘボンらに大きな影響を与えた。片仮名石版刷り唐本装でありギリシア語本文は彼が漢訳の際に用いたグリースバッハ校訂本と推定される。[2]ウィリアムス訳『馬太福音伝』 ウィリアムスはモリソン号でギュッツラフと日本に来航後,肥後の漂流民原田庄蔵・寿三郎・熊太郎をマカオの自宅に引き取り,日本語を学び1841年ごろまでに『創世記』,1850年までに上記『馬太』と『約翰福音伝』5章9節まで訳した。イエスを「ジイザァス」としているので欽定訳英文によったと知られる。日本文は漢訳を理解できた庄蔵のつくった俗話体である程度こなれているが,肥後方言・九州なまりが混入している。ごく少数漢字を用いた片仮名文である。これら稿本はS.ブラウンが1859年来日の際,香港で渡され,翻訳に参照されたが1867年のブラウン宅の火事で失われた。現存の『馬太』『約翰』は戦後春日政治博士が長崎で発見したものである。[3]ベッテルハイム訳聖書 英国海軍伝道会琉球宣教師ベッテルハイムは1846年(弘化3)那覇に到着すると,役人通事の協力を無理に求めながら,1851年(嘉永4)まで四福音書・使徒行伝・ロマ書を琉球訳した。が,日本本土で通用しない方言と知ると琉球なまりはまじっても方言の入らぬ漢訳訓読文をもとに,漢和対訳の四福音書を翌1852年までにつくり,英国聖書協会に送った。琉球訳は『路加伝福音書』『琉球訳約翰伝福音書』『琉球訳聖差言行録(使徒行伝)』・『琉球訳保羅寄羅馬人書(シイノツカイ パヲロノ ロマヒトニツカイタルボン)』の4冊が当伝道会より1855年に香港で刊行された。片仮名表記である。漢和対訳本は1858年英国聖書協会の資金で『路加伝福音書』のみ刊行された。本文はメドハウストの代表委員会漢訳文一段ごとに割註の形で2行書きの小字の真仮名まじり文がつけられている。これらはみな,唐本装であるが,『馬太』『馬可』両福音書の稿本は1976年(昭和51)英国聖書協会で発見され,3年後に復刻本がでた。彼は1855年以降アメリカに住み1870年に没したが,その間,日本人留学生とともに改訳した和訳本が妻の尽力でウィーンで1873年に『路加伝福音書』『約翰伝福音書』,1874年に『使徒行伝』と平仮名連続活字で印刷出版された。ギリシア語本文はグリースバッハを用いた。
【禁教下の国内刊行聖書】1859年(安政6)後,来日宣教師たちによって種々訳されたが,聖書として刊行されたものは次の2種である。[1]ゴーブル訳『摩太福音書』1860年(万延1)来日し,1863年(文久8)より翻訳に着手,「アメリカバイブルユニオン」(急進バプティスト派の聖書翻訳団体)の厳密な原典主義とコイネエ(ギリシア通俗語)と等しい平俗語訳という2方針にもとづき,1871年(明治4)苦心のすえ完成した。平仮名分かち書きで無学な庶民が聞いてわかるよう日本習俗に近づけた平易な口語訳である。禁教時のため,禁書であると知らぬ東京芝の版元より出版したが配布するや直ちに没収破棄の憂き目にあった。唐本装木版本。[2]ヘボン・ブラウン訳聖書 ゴーブルも同様だが二人は1859年来日すると,日本教師の漢訳の書下し文をもとに訳文をつくったが,日本語熟達の必要を痛感,ブラウンは文法会話語彙集を収めた『日本俗語』(1863)を,ヘボンは『和英語林集成』(1867)なる辞書をつくり,周到な準備のもとに翻訳を進めた。1867年ブラウンの一時帰国を機にそれぞれを稿本を検討し合う協力関係のもとにタムソン・バラや奥野昌綱をまじえて進め,1872年(明治5)秋に『新訳聖書馬可伝』『新約聖書約翰伝』,翌春に『新約聖書馬太伝』の3冊を刊行した。版下は奥野の筆になり漢字まじり平仮名文語だが,和語を多くし平易な感じの文章である。横浜の版元稲葉儀兵衛による刊行。唐本装。
【解禁後の明治訳聖書】[1]翻訳委員社中訳『新約全書』 1872年9月12日横浜ヘボン会堂で第一回各派合同プロテスタント宣教師会が開催された際,聖書の合同訳が議せられ,長老派ヘボン・改革派 S.ブラウン・組合派グリーン・英国教会エンソー・米聖公会 C.ウィリアムスが選ばれた(後者2名は欠席)。1874年(明治7)3月新来のメソジスト派マクレイ・バプテスト派 N.ブラウンとエンソーらの代わりのパイパー・ライトを加え7名による「翻訳委員社中」をつくり,横浜山手211番の S.ブラウン宅で活動を始めた。マクレイは職務上,パイパー・ライトは東京在住のため,N.ブラウンは1年半勤め独自訳のため,おのおの離れ,結局ヘボン・S.ブラウン・グリーンの3者で進めた。助手には奥野昌綱・松山高吉(たかよし)・高橋五郎が加わった。ギリシア語は公認本文,英文は欽定訳,漢訳はブリジマン・カルバートソン訳を用いた。外人は日本語に精通せず日本人は英語すら不十分であったのに協力よろしきを得て優れた訳文となった。漢語調をという日本人の主張は排され和語を主とする文語体を用い,漢字に付した訓読のルビを本文と定めた。訳了した書より分冊本を発行し1879年(明治12)12月に訳了,1880年4月19日完成出版した。東京新栄橋教会での当日の祝賀会は14教派を集め,盛んであった。最初は半紙判木版分冊本の合巻本であったが,まもなく洋装活字本も出,年末には誤植を正した『引照附新約全書』が記念出版された。分冊刊行年次は次のとおり。『路加伝』『希伯来(へぶる)書』(1876,明治9),『馬太伝』『馬可伝』『約翰伝』『使徒行伝』『羅馬書』『約翰上中下書』『加拉太(がらてあ)書』(1877)・『哥林多(こりんと)前書』『同後書』(1878)・『以弗所(えへそ)腓立比(ぴりぴ)書』『帖撤羅尼迦(てさろにけ)前後書』(1879)・『哥羅西(ころさい)書』『提摩太(てもて)前後提多(てとす)腓利門(ぴれもん)書』『雅谷(やこぶ)彼得(ぺてろ)前後猶大(ゆだ)書』『約翰黙示録』(1880)の計17分冊。分冊本全書とも種々の形で刊行された。[2]聖書常置委員会訳『旧訳聖書』 1876年,在京宣教師は横浜の翻訳活動に協力し,旧約訳出を進めるための組織をつくったが,それは1878年12月ミッション代表1名ずつよりなる上記名の委員会に再編された。新約が完成間近であったので,これは「翻訳委員社中」の発展的改組を意味した。広く地方宣教師にも作業を分担させる案は成功せず,1882年にはヘボン・ファイソン・フルベッキの3名を翻訳委員として仕事を進めざるをえなかった。日本人側は積極的に協力を申し出て,1883年12名の「翻訳事務委員会」をつくったが,資力的に維持できなかった。しかし,ヘボンは日本人補佐の必要を力説し,聖書会社の嘱託として松山・高橋・奥野・植村正久・稲垣信らを用い,大きく訳業に寄与させた。訳出箇所の分担は次の通りである。
パイパー ヨナ・ハガイ・マラキ(3)
タムンン 創世記(ファイソン共訳)
ファイソン ヨシュアからエステルまでの12史書とイザヤ(3)
ヘボン 出エジプトから申命記までの4書とヨブ・箴言・伝道の書及びイゼキエル以下預言書(パイパー訳を除く)(総計19)
フルベッキ 詩編(C.ウィリアムス共訳)・雅歌・哀歌(3)
ヘブル語原典欽定訳後に,改訳英文聖書(1885年刊行),ブリジマン・カルバートソン漢訳聖書が底本とされた。訳了後も改訂を加え1888年(明治21)2月3日完成出版された。また,この書は先の新約と合わされ『旧新約全書』として刊行され日本プロテスタント教会の公認聖書となり,優れた訳文は明治期翻訳文中の白眉とされ,思想・文化の面に多大の影響をもたらした。これは「明治元(もと)訳」とも称せられる。ヘボンはこの翻訳事業に終始携わった唯一の人で,第一の功績者である。[3]教派訳諸聖書 [a]『バプテスト新約聖書』 N.ブラウンは1873年来日後先任者ゴーブルの訳業を継いで翌年末『聖書之抄書(ぬきがき)』を刊行。1875年『馬可伝福音書』『也古部之不美(やこぶのふみ)』を始めとして単独で15分冊をつくり,1879年年委員社中に先立って『志無也久世無志与(しんやくぜんしょ)』を刊行した。わが国最初の新約全書で,平仮名分かち書きに僅少の漢字と地名人名異読などのローマ字ルビが行間に付されている。タイトルに万葉仮名を用いたのは表音文字平仮名による万民の聖書であることを示すためであった。本文は連続活字で組まれ,自派の「横浜バイブルプレス」によって印刷刊行された。その後改訂を加え,総平仮名の庶民版と行間漢字ローマ字註の学識版の2種に分け,それぞれ『浸礼教会新約全書』としてまとめられた。後者は英人 ホワイトによって漢字まじり文に改められた。日本人助手は川勝鉄弥でギリシア語原典は当時最も進んでいた。[b]『カトリック訳』 1859年再布教を始めたカトリックは,潜伏キリシタン再組織に追われ,教義書祈祷書をわずかに刊行しただけで,聖書はシュタイシェン神父の口述をもとに高橋五郎が訳した『聖福音書』(上下,1895)までなかった。これはヴルガタよりの訳である。新約全体は委員社中訳より30年遅い1910年刊のラゲ(1852〜1929)訳『わが主イエズスキリストの新約聖書』が初めてである。ラテン訳のほかギリシア語原典も参照し古賀義一を助手に訳し,小野藤太ら3人の学識者の添削を受け名訳とされた。引照註解も優れ,内容により章節のほかに篇項款と分け,小見出しがある。個人的だが日本教会の標準訳として用いられた。[c]『日本正教会(ハリストス)訳』 ギリシア正教会は1861年函館でニコライ司祭が布教を始め「美華書館」刊の漢訳を用いていたが,その1863年版をもとに自派慣用句に直した『訓点新約聖書』を1889年(明治22)につくった。1895年ごろよりニコライは中井木菟(つぐ)磨を助手として翻訳に着手,1901年『我主イイススハリストスノ新約』を完成出版した。中井は大阪の儒学者の家系のため訳文は格調ある漢文体で片仮名交りである。[4] 明治期の特殊聖書[a]『訓点漢訳聖書』 幕末明治初期は男子は漢訳本を用いたので,やがて『訓点新約全書』(1878年初刊)・『訓点旧約全書』(1883年初刊)・が米・英・北英三つの聖書会社より出た(ほかに旧約8分冊本あり)。[b]和漢対訳『新約聖書』(ロマ書まで) 訓点中村正直,発行原胤昭,1878年十字屋刊,小型銅版刷り。[c]『ヘボンのローマ字聖書』『ヨハネ福音書』英和対訳,1872年ニューヨーク刊行のほか『新約全書』(1880)・『旧新約全書』(1892)などがある。[d]井深梶之助訳『馬可伝俗話』(1881)日本人の初期口語訳。[e]聖公会バチェラー訳『アイヌ語新約聖書』 1889年ごろより分冊を出し1890年に完成した。
【大正改訳『新約聖書』】外人宣教師主導による「委員会聖書」には早くから日本人の側から訳文に対する不満があったが,語学力の不足はその主導権を得るにいたらなかった。その後,時代の推移に伴う言語文章の変化,聖書原典研究の進展から生まれた新テキストによる各国語訳の出現,日本人の語学力の向上などの事情は個人や教派による部分的改訳を生んだ(左近義弼・宮崎湖処子・聖公会など)。1906年(明治39)東京における「福音同盟会(プロテスタント超教派協力団体)」で聖書改訳の決議と委員の選出がなされ,従来の「常置委員会」と英米聖書会社との3者による「改訳委員会」が生まれた。1910年グリーン・藤井寅一(組合),フォス・松山寅一(聖公会),デヴィソン・別所梅之助(メソジスト),ハリントン(バプテスト),川添万寿得(日本基督)の内外各4名の委員によって改訳は始められた。途中藤井の辞任,グリーンの死去によるラーネッド(組合)の委員長就任はあったが,1917年(大正6)「大正改訳」の『新約聖書』は完成された。原典への忠実さ,語格を正しく用いた文語,用字法の改善などの日本委員の対等な立場の参加による成果は顕著で,明治元訳をはるかに超えるものであった。1920年に点字本もつくられた。
【昭和期の聖書】昭和になって特筆すべきことは1928年(昭和3)刊の永井直治訳『新契約聖書』である。これは日本人の個人訳新約聖書の最初のものである。次に1931年秋「基督教連盟」総会に提案された旧約改訳の議は教界全体の動きとなり,委員の選任にまで及んだが進展しなかった。しかし,戦時下の暗い時代にも徐々に計画は進められ,1942年(昭和17)に5年前英米聖書協会から独立した「日本聖書協会」は,「旧約聖書改訳中央委員会」を組織し,都留仙次を長とする翻訳委員6名(後に2名追加)をもって事業を進めた。
[1]日本聖書協会『口語訳聖書』 敗戦に伴う戦後社会の変化はキリスト教の隆盛をもたらす一方,新仮名使い漢字制限などの国語政策の施行は新しい聖書の必要を生んだ。1950年協会は「改訳委員会」をつくり,新政策に応じた表記の変更を従来の聖書に加える方針を立てたが,時代の要請はもっと根本的な現代語訳聖書の実現へと計画を急転させた。委員会は次の専門委員を定めた。
〈旧約〉都留仙次(長)・手塚儀一郎・遠藤敏雄
〈新約〉松本卓夫・山谷省吾・高橋虔(主事国語顧問各1)。
ほかに改訳コンサルタント各4名,改訳顧問24名でこれらを支え,新約はネストレ最新版(1949),旧約はキッテルのビブリカ=ヘブライカ第3版を底本として1951年訳出に着手,新約は1954年4月12日に完成,旧約は戦中よりの訳業を受け継ぎ口語に訳しかえ,1955年(昭和30)に完成をみた。4月15日新・旧を合せた『口語訳聖書』は出版刊行された。この書の特徴は平易で親しみやすい点だが文語体の簡潔荘重な趣に欠けるため,聖典としての重味を望む声もある。点字本も1955年に完成。
[2]その他の戦後訳聖書 戦後国際交流の盛んになるなかで日本の聖書研究も著しい発展を遂げ,種々の聖書翻訳を生むにいたった。主なるものを次に列記する。[a]キリスト新聞社版『新約聖書口語訳』
社長賀川豊彦の発議で渡瀬圭一郎・武藤富雄によって平易で品格ある文章に訳された。 1952年(昭和27)に刊行され新時代の要求に応えた。[b]日本聖書刊行会『新改訳聖書』 1961年(昭36)福音派諸団体の学者29名が「新改訳聖書刊行会」を結成。総主事堀川勇,編集舟喜順一,新約松尾武,旧約名尾耕作の各主事のもと最近の聖書学の成果の上に立って新翻訳を進めた。1962年開始された新約は1965年(昭和40)に完成『新約聖書新改訳』を刊行。旧約は1970年に完成し,新約と合わせられ『新改訳聖書』として出版された(ともに「いのちことば社」)。特徴はキリストの神性を明確にする福音派の保守的信仰に立っていることとわかりやすい「です」「ます」調を多用した訳文にある。[c]「カトリック訳聖書」 バルバロ訳『口語訳旧約新約聖書』 イタリア人バルバロ神父により,1950年に『四福音書』,1953年に『新約聖書』を出版。1964年旧約訳了とともに表題名の聖書をドン=ボスコ社より刊行。ただし旧約はヴルガタを主に用いた重訳である。聖書は民衆のことばで書かれたことを重視した飾らない平易な口語訳である。フランシスコ会聖書研究所訳注『新約聖書』前書が重訳であるのに対し,厳密な諸原典・古代語本による批評的注付の和訳を企画し『創世記』(1958)を始め,旧約は半ば近く訳出中であるが,新約は1979年(昭和54)に中央出版社より刊行された。新約の底本は聖書協会世界連盟発行の『ギリシア語新約聖書第三版』。[d]『個人訳聖書』 無教会派の塚本虎二による『福音書』(1963),同じく無教会派の関根正雄による『創世記』(1951)を始めとする旧約21書を収めた9分冊がそれぞれ「岩波文庫」より出ている。
[3]共同訳『新約聖書』 最後に特筆すべきことは,世界キリスト教界の新時代の目標であるエキュメニズム(教会の一致)の精神にもとづいたカトリックとプロテスタントの共同訳が日本においても実現したことである。この動きは1966年(昭和41)より始まり,1972年(昭和47)に翻訳者及び編集委員を定めて作業に入り,1978年(昭和53)『新約聖書共同訳』の完成をみた。イエズスとイエスの各派の呼称の違いを「イエスス」に改めたことに象徴されるように伝統的用語などの障害をこえる努力がなされた。〈学問的な厳密さを保つと同時に,あくまでも一般読者にわかりやすい訳〉という未信徒たちを基準に置いた新しい視点をもった翻訳である。旧約も進行中。日本聖書協会刊行。
〔参考文献〕海老澤有道『日本の聖書』1981,日本基督教団出版局
日本聖書協会編『日本聖書協会100年史』1975,日本聖書協会
「聖書の翻訳〈各国近代,現代〉」『キリスト新聞社聖書大辞典』1871,キリスト新聞社