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●聖書(中国) せいしょ

アジア 中華人民共和国 AD 

景教の時代】聖書の中国語訳は唐代に景教の僧侶によって行われたのが初めである。781年(建中2)に建てられた「大秦景教流行中国碑」は,阿羅本が聖書の翻訳をしたことを示しており,また敦煌出土の景教経典である『尊経』には35種類の中国語訳経典の書名を載せていて,これらのなかには聖書の中国語訳も含まれている。これによって唐代における聖書翻訳の事実を推察することは可能であるが,しかし訳本そのものは現存しないので,その具体的な実態については不明である。

【カトリックの翻訳】元代の中国で本格的なカトリック伝道を行ったフランシスコ派のモンテ=コルビーノは大都(北京)を中心に布教した。彼は『詩篇』および『新約聖書』を蒙古語に翻訳しているが,カトリック宣教師によるアジアの言語への翻訳として重要である。もとよりカトリックにおいては,ラテン語訳を用いることを正統としており,他国語への翻訳は重視されてはいなかった。明代におけるカトリック伝道の開拓者マテオ=リッチが,聖書中国語訳については,これを後回しにしているのもこのためであり,また徐光啓は聖書翻訳を提案しているが,実行はされていない。とはいっても布教上の必要からある程度の中国語訳は必要であったのであり,イエズス会の宣教師による聖書の部分的な翻訳はかなり行われていた。たとえばパントーハ(ホウ※注1※廸我)の『七克七書』や,ディアズ(陽瑪諾)の『天主降生聖経直解』などには,聖書よりの引用がかなり含まれている。カトリック宣教師による聖書中国語訳のうち,とくに注目すべきものは,大英博物館に所蔵されている稿本であり,おそらくバセー(白日陞)によって訳されたものである。表題はないが『新約聖書』の大部分の中国語訳であり,これを18世紀初め,東インド会社のホジソンが筆写させ,大英博物館に寄贈したのが同館に所蔵の由来である。プロテスタント伝道の開拓者モリソンが聖書の中国語訳に当たり,本書を参照したことは,聖書中国語訳史上重要である。

【プロテスタントの翻訳】プロテスタントはカトリックと立場を異にし,聖書の翻訳を重視したから,伝道開始後,ただちに聖書中国語訳をきわめて熱心に遂行している。その翻訳も個人訳・委員会訳などかなりの種類があり,それぞれの特長をもっているので,以下に時代順に列挙して解説する。

 [1]マーシュマン・ラサール訳。イギリス=バプテスト派の宣教師でインドに駐在していたマーシュマン(馬士曼)とアルメニア人でポルトガルの通訳官であったラサール(拉沙)との共訳によるものである。この翻訳は,ラサールがまず英語より中国語に訳した文章を,マーシュマンがギリシア語訳聖書によって改訂し,中国人の助力もえて完成したものである。1810年(嘉慶15)に『マタイによる福音書』の翻訳をまず完成,1822年(道光2)『新約聖書』を出版し,このあいだ『旧約聖書』の翻訳を推進している。この聖書は訳語の問題もあって,バプテスト教会系の宣教師に用いられた。改訂はアメリカ伝道協会のゴダード(高徳)やイギリス=バプテスト伝道協会のハドソン(胡徳邁)などによって,1850年代より1860年代にかけて行われた。[2]『神天聖書』。1807年(嘉慶12)広東に到着したモリソンは,ロンドン会の方針にしたがって,早速聖書の中国語訳の仕事に着手した。この場合彼が参考としたものの一つに,カトリック宣教師の中国語訳聖書があったことは前述のごとくである。モリソンは1810年より独力で聖書の中国語訳に当たったが,1813年(嘉慶18)彼の協力者としてウィリアム=ミルンが到着すると二人の協力体制によって訳業を推進し,まず『新約聖書』を,ついで『旧約聖書』の翻訳を完了し,1823年(道光3)『神天聖書』の完成をみるにいたった。このあいだの進行状況は別表のごとくである。なお本書の構成は21冊(『旧約聖書』17冊,『新約聖書』4冊)より成り,「載旧遺詔書兼新遺詔書,従本文訳述」の表題が付されている。『神天聖書』はプロテスタント宣教師による最初の完訳聖書として重要であるが,伝道事業の進行とともにその改訳が必要となったことは当然である。モリソン自身,改訂を早くより心掛けていたが1834年(道光14)没したため,その仕事は,メドハーストギュツラフブリッジマンおよび J.R.モリソン(モリソンの息子)を中心とする委員会に継承された。この委員会の中心となったのはメドハーストギュツラフであり,『新約聖書』は前者により,『旧約聖書』は後者によって改訂され,1830年代の後半に刊行された。これらの改訂版はギュツラフによってさらにたびたび改訂され,『求世主耶蘇新遺詔書』などの書名で刊行されたが,これは後年太平洋国が用いた旧・新約聖書の原本となったものであり,近代中国史上,重要な意義をもっている。[3]代表委員会訳文理訳)。アヘン戦争後の南京条約および翌年の追加条約によって,欧米各国宣教師の中国伝道は従前に比べて,飛躍的な好条件に恵まれることとなり,伝道事業の発展が予想された。ここにおいて聖書の本格的改訂の議がおこり,1843年(道光23)香港で各派の宣教師が会合し,聖書改訳の基本原則を定めた。ここでは訳文を従来刊行されたものに比べいっそう普遍的なものとすること,訳語はヘブライ語およびギリシア語の原義に即応させるが,適宜に中国の熟語や文体を採用し,中国的なものとすることなどの要点がまとめられている。この会議で改訳委員会が組織され,各地の宣教師が分担してまず『新約聖書』の翻訳に当たったが,洗礼等についての訳語の問題から,バプテスト伝道会の宣教師は脱退した。改訳委員会の中心となったのはメドハーストであり,1847年(道光27)上海の彼の家で第1回の代表者会議が開催された。この会議で問題となったことの一つは,「神」と「上帝」の語訳に関してであり,決定にはいたらず,出版機関がその主張にしたがっていずれかを採用することとした。この結果,米国聖書協会は「神」を,英国聖書協会は「上帝」を採用し,2種類の代表委員会訳が成立した。『旧約聖書』の改訳は1849年(道光29)に委員会を組織したが,意見の不一致によって分裂し,メドハーストらは『新約聖書』改訂の原則によって訳稿を進めた。この訳は『新約聖書』は1852年(咸豊2),『旧約聖書』は1855年(咸豊5)刊行され,ふつう代表委員会訳と呼ばれる。代表委員会訳本には,中国人学者の王韜(おうとう)も参加しており,文章は洗練されているが,原文の意義がやや不明確に表現されている部分もある。しがし中国の思想や哲学に関する用語を巧みに用い,また文章の理論をも重視しているので,文理訳とも呼ばれ,中国知識人のあいだに好評であった。

ブリッジマンカルバートソン訳】メドハーストを中心とする代表委員会訳本の宣教師と意見の不一致により,分裂して訳稿を進めたブリッジマン(裨治文)およびカルバートソン(克陛存)による訳である。代表委員会訳とは別の方針によって訳業を進め,原文にきわめて忠実な訳となっている。『新約聖書』は1859年(咸豊9),『旧約聖書』は1862年(同治1)に米国聖書協会によって出版された。アメリカ人宣教師の伝道地には本書が普及し,わが国でも用いられ,聖書の日本語訳に当り参考とされたのはこの聖書であった。

淺文理訳代表委員会訳すなわち文理訳は,知識人には好評をもって迎えられたが,一般民衆にとってはやや程度が高かった。このため文章をより平易な文語によって改めたのが淺文理訳である。『新約聖書』の訳は,漢口のグリフィス=ジョン(揚格非)によって始められ,1885年(光緒11)『新約聖書』が,1905年(光緒31)『旧約聖書』が刊行された。

【国語訳本】中国の標準語(北京官話を中心とし,ときには白話を含む)による訳本であり,1854年(咸豊4)メドハーストとストロナック(施敦力約翰)によって開始され,1857年(咸豊7)『新約聖書』を刊行したが,北京官話にもとづくものではなかった。北京官話による国語訳本として最初のものは,北京委員会訳本であり,1866年(同治5)に北京で初版を,1872年(同治11)にその改訂版を刊行した。委員の中心はエドキンス(艾約瑟)・マルティンブルドン(包約翰)などであり,この訳本は8年を費して完成した。

【和合訳本】1890年(光緒16)上海で宣教師の会議が開催され,聖書の「合同訳本」を作成することを議した。この結果,代表委員会訳淺文理訳・国語訳のそれぞれの方針を勘案しつつ合同訳を作成することを計り,『英国改訂聖書』を底本として訳稿を進めた。聖書全体の改訳には27年を要し,1919年にいたって完成した。現在の中国語訳聖書の通行本となっているのはこの訳である。プロテスタント宣教師による中国語訳聖書には,このほか呂振中訳本・朱実恵訳本・王宣忱訳本などがあり,また各種方言訳や部族訳本がある。以下にその主要なものについて列記する。方言訳……蒙古語訳・満州語訳・厦門方言訳・福州方言訳・上海方言訳・廣州方言訳・寧波方言訳・興化方言訳・蘇州方言訳・客家方言訳・台湾方言訳・台湾山地方言訳・建寧方言訳・汀州方言訳・汕頭方言訳・海南方言訳。部族語訳……西蔵語訳・花苗語訳・苗華語訳・黒苗語訳・黎蘇語訳・荘家語訳・拉家語訳・那希語訳・那和話訳・高普語訳。

〔参考文献〕村岡典嗣『漢訳聖書源流考』日本思想史研究,1940,岩波書店

揚森富編『中国基督教史』1968,台湾商務印書館

矢崎健一『中国語聖書翻訳小史』聖書翻訳研究4,1972

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