●聖書(西洋) せいしょ
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キリスト教の経典であるバイブルということばは,ナイル河畔に繁茂するパピルスの茎を意味するギリシア語に由来し,巻物や手紙などの文書集を意味する。聖書は元来パピルスからつくられた薄い板に筆写され,その断片は聖書の重要な証言として今日に伝わっている。聖書はユダヤ教とキリスト教がともに正典としている『旧約聖書』とキリスト教独自の『新約聖書』より成る。この二つの呼び名はユダヤ教のなかから生まれ,しだいにユダヤ教から分離していった初期のキリスト教徒が古い契約と新しい契約の意味で用いたもので,彼らはかつて神がモーセに律法を与えて結んだ契約は,ユダヤ人自身の背反のゆえに廃棄され,今や神はキリストを通して全人類と新しい契約を立てたと理解した。そして『旧約聖書』をキリストを証する準備の書として重んじ,両書に一貫した神の救済の働きをみいだすことで,独自の立場を打ち立てたのである。【旧約聖書】ユダヤ教の正典としての『旧約聖書』はアラム語で書かれた一部のものを除いてすべてヘブル語で書かれ,[1]〈律法〉,[2]〈預言者〉,[3]〈諸書〉の三つの段階をへて成立した(ユダヤ教ではこの三つの頭文字をとって聖書を“タナク”と呼んでいる)。[1]ヘブル語聖書のはじめの5書(創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記)はユダヤ教の伝統で“律法(トーラー)”と呼ばれる。またこれらはモーセによって書かれたという伝説にしたがって“モーセ五書”とも呼ばれるが,申命記の終わりにはモーセの死の記述があり,種々の伝承が長い歴史をへて統一され,前400年ごろに正典化されたものである。これらは形式的にも内容的にも多様であり,古代イスラエルの諸起源に関する物語を縦糸に,説話や原因譚・系図・律法規定が織り混ぜられている。これらに用いられた資料の特徴から,神名に“ヤハウェ”を用いる J 資料,神名に“エロヒーム”を用いる E 資料,法規定や系図を整然と記述する祭司資料 P などの別々の編集段階に由来する資料が区別されている。内容は神の天地創造から堕罪神話・ノアの洪水・バベルの塔までの原初史,神の約束を信じて旅立ったアブラハムにはじまる族長物語(創世記),モーセがイスラエルの民を率いてエジプトを奇跡的に脱出して,シナイ山でヤハウェより十戒を受け,契約を結ぶまで(出エジプト記),荒野の放浪(民数記),約束の地に近づいたモーセが死を前にしてイスラエルに残す告別のことば(申命記)などを含む。[2]〈預言者〉は伝統的に二つに分けられ,ヨシュア記・土師記・サムエル記・列王紀の四つは“前の預言者”と呼ばれ,それにつづくイザヤ・エレミヤ・エゼキエルの3大預言者とホセア以下の12の小預言書は“後の預言者”と呼ばれる。“前の預言者”は実質的には歴史書であり,モーセの死後ヨシュアに率られたイスラエルはカナンに侵入して土地を取得し,サムエル・サウル・ダビデ・ソロモンにわたる王国の繁栄をへた後,神を離れて偶像崇拝に陥った王国は南北に分裂して衰退の一途を辿る。“後の預言者”は祖国滅亡の危機にさらされた民に伝えられた,ヤハウェの意志を伝える預言者のことばをその内容とする。預言者はヤハウェによる審判を告知したばかりでなく,ヤハウェにとりなし,救済をも指し示したのであり,それらのことばは預言者の活躍した時代から数百年をへて捕囚後にまとめられ,前200年ごろに正典化された。[3]〈諸書〉は前200年ごろから1世紀にかけて〈律法〉〈預言者〉に付加された文書集で,神への賛美の歌や知恵の教え,人生訓や恋愛歌,黙示的預言などの多様な文書を含む。全体は詩の文書(詩篇・箴言・ヨブ記)・五つの巻物(雅歌・ルツ記・哀歌・伝道の書・エステル記)・預言の書(ダニエル書)・歴史の書(エズラーネヘミヤ記・歴代志)の四つに分けられる。〈五つの巻物〉という名称は,これらがユダヤ教の年ごとの祭りに朗読される習慣があることに由来している。ユダヤ教のなかでその正典性をめぐって最後まで論争がつづいたのは雅歌・伝道の書・エステル記の3書であり,〈諸書〉全体が正典と認められたのは90年のヤムニヤ会議で,ユダヤ教の正典は以上の39書に決定された。これは当時のキリスト教徒が『七十人訳聖書』を自分たちの聖書とみなして,その中に含まれる39書以外の文書(外典)の権威を認めていたことに対する措置でもあった。それ以後今日にいたるまで,ユダヤ教とカトリック教会の『旧約聖書』の扱いには大きな相違が存在するのであり,プロテスタント教会では宗教改革時代に原典主義を採用したために,39書のみを正典とした。
【新約聖書】『新約聖書』は紀元50年代前半から2世紀半ばに成立した27の文書より成る。これらはいずれもヘレニズム時代に用いられた“コイネー”と呼ばれる通俗ギリシア語で書かれ,成立背景や神学的意図は一様ではないが,キリストの十字架上の死と復活の信仰を中心にしている点で一致している。現行27書のみが正典であることに最初に言及したのはアタナシオス(296ごろ〜373)の『第39復活祭書簡』(367)であり,古代教会内ではそのほかにも正典同様に尊重されていた文書(たとえば『使徒教父文書』)や徐々に異端的教えとして排除されていった文書(今日『新約聖書外典』と呼ばれるものの多く)などがある。『新約聖書』の正典化を促した一つのおもな要因は,『旧約聖書』の排除と極端なパウロ主義を主張し,自分の自解にもとづいた聖書を作成した2世紀のマルキオンである。彼は144年ローマ教会より破門されたが,正統教会に正典作成を促し,『旧約聖書』に対する肯定的態度をひきおこした。『新約聖書』は文学形式にしたがって [1]福音書,[2]歴史書,[3]書簡,[4]黙示録の四つに区別される。[1]の福音書とは「よき知らせ」を意味するギリシア語に由来し,宣教の中心であるイエスの生涯について,マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネと呼ばれる4人の福音書記者が各々の視座がら福音書を残している。古代教会は彼らを各々イエスの直弟子なる取税人マタイ・ペテロと行動をともにしたヨハネ・マルコ・パウロの同行者の医者ルカ・ゼベダイの子ヨハネないし愛弟子のヨハネと同定しているが,いずれも史実性に乏しい。マタイ福音書はイエスの直弟子によるものとみなされ,分量も多いことから福音書の筆頭に置かれて尊重されてきた。しかし成立年代からいえばマルコ福音書が最も早く(70ごろ),しかもマタイとルカはマルコ福音書を資料として用い,それにQと呼ばれるイエスの語録資料と両者の特殊資料を加えて80年代に執筆している(このために三つの福音書は“共観福音書”と呼ばれる)。これらの三つが各々のイエス理解を保ちながらも,ガリラヤ地方におけるイエスの伝道活動や奇跡行為,エルサレムにおける受難と死・復活をかなりの並行性をもって描いているのに対し,100年ごろに編集されたヨハネ福音書の場合には“共観福音書”と共通の資料を一部用いながらも,すでに天上に挙げられた栄光のキリストの視点から生涯の歩みを回顧的に辿っている点で,叙述の仕方が大きく異なる。[2]に分類される使徒行伝は冒頭に置かれた“テオピロ閣下”への献辞を共通に有していることや,用語法の類似から,ルカ福音書と同一の記者による福音書の続篇とみなされている。福音書が〈イエスのとき〉を記したのに対し,本書は使徒たちの宣教活動が拡大してゆく〈教会のとき〉を歴史的に(現代の歴史観とは異なって,神による救済の歴史)描く意図を有している。[3]に区分される書簡は21あり,そのうちパウロの真正の手紙と確実に認められているのはロマ書・I II コリント書・ガラテア書・ピリピ書・I テサロニケ書・ピレモン書の7通で,IIテサロニケ書・エペソ書・コロサイ書の真正性については議論が分かれている。また“牧会書簡”と呼ばれるI II テモテ書・テトス書はパウロの時代よりも発展した教会の状況を前提しており,パウロ的伝統を継承した著者の手によるものとみなされている。このほかに書簡というよりは説教に近いヘブル書と,特定教会を超えてより広範な読者を対象とした“公同書簡”と呼ばれるヤコブ書・I IIペテロ書・ユダ書・I−IIIヨハネ書がある。[4]に分類されるヨハネ黙示録はユダヤ教の黙示文学の伝統にもとづき,世界の終わりと神による審判の到来を象徴的に描いている。これは紀元90年代中ごろのドミティアヌス帝の時代に教会に対する大迫害が迫っていた状況のなかで執筆され,迫害下にある教会を励まし,勧告を与える意図を有している。
【七十人訳聖書】旧約原典の最古の翻訳(ギリシア語)で,ヘブル語で書かれた旧約本文の“マソラ本文”として伝わっているものよりも年代は古く,重要である。同書の成立を伝える『アリステアスの手紙』によれば,前3世紀に有名なアレクサンドリアの図書館に収めるために,エジプト王の命令でヘブライの律法書の翻訳にイスラエルの各部族がら6人ずつ72人の長老が集められ(ここから『七十人訳』の名称が生じた),全員が同じ日に翻訳を完了し,しかも各長老の訳文が完全に一致したという。これは聖書が霊感を受けた神のことばであるとの信仰を伝える伝説であるが,この話はしだいに拡大されて,モーセ五書のみならず旧約全書の翻訳と結びつけられるようになった。しかし『七十人訳聖書』に収められている全部の書がアレクサンドリアで翻訳されたのではなく,全書の翻訳にはかなりの期間を要したと考えられる。このようなギリシア語訳聖書の成立を促した背景として,捕囚期以降ユダヤ民族が各地へと散らされ,また積極的にパレスチナの外へと進出するユダヤ人も増え,紀元前後にはユダヤ人がヘレニズム世界の各地にひろがっていた状況がある。当然ながらヘブル語を理解できないユダヤ人も出てきたのであり,ギリシア語訳聖書はこうした人びとが聖書を読む必要上生まれたが,これは同時にユダヤ教・キリスト教の両方にとって異邦人伝道の有力な武器となった。とくにイザヤ書7章14節のギリシア語訳は,キリスト教にとってメシア誕生の預言(マタイ福音書1章23節)の重要な典拠となった。『七十人訳聖書』はなかに含まれる文書の数や配列の点でヘブル語聖書と異なっている(表参照)。これがキリスト教の専用となったのに対抗して,ユダヤ教側から『アクィラ訳』(2世紀の逐語的な訳)・『テオドティオン訳』(2世紀の『七十人訳』に近い自由な訳)・『シンマコス訳』(3世紀の読み易さを考慮した敷衍訳)が出され,これらはオリゲネス(185ごろ〜253/254)の『ヘクサプラ』(ヘブル語本文とそのギリシア語音訳,『七十人訳』とこれらの三つの訳を並記した対訳聖書)に収められた。
【ウルガタ】“ウルガタ”とは「広く知られた共通の版」というような意味のラテン語で,西方教会で最も広く用いられた聖書のラテン語訳である。これは4世紀までに流布していた多くの古ラテン語訳聖書の多様な訳を統一するために,382年に教皇ダマススのラテン語聖書の改版の勧めに従い,当時の最も優れた神学者ヒエロニムス(342ごろ〜420)が着手した。彼が最初に手がけたのは4福音書であり,これは当時の比較的良質なラテン語本文をいくつかの古いギリシア語本文と比較して最小限の訂正を行ったものにすぎなかった。『新約聖書』のそれ以外の部分の改訂については,確かなことは不明である。しかし『旧約聖書』の方はパレスチナのユダヤ人の助けを借りて,ヘブル語原典から翻訳された。当初彼の翻訳はあまりよい評価を受けなかったが,徐々にその真価が認められ,6世紀になると今日『ウルガタ』として知られる形の一冊にまとめられた。ヒエロニムス自身は『旧約外典』を正典とは区別して扱っていたが,『ウルガタ』には古ラテン語訳によるものが加えられた。その後『ウルガタ』は1546年のトリエント公会議でラテン語公認本文として認められ,教皇シクストゥス5世によって出版された。現在ローマ=カトリック教会で公認されているのは1592年に教皇クレメンス8世の下に改訂された Clementine Vulgata であり,この中では『シクストゥス版』の誤りが大幅に訂正されている。現在ローマ=カトリックでは『ウルガタ』の改訂が進行中である。
【ルター訳ドイツ語聖書】マルティン=ルター(1483〜1546)は宗教改革の三つの理念(信仰義認・聖書主義・万人司祭)の第2にもとづき,それまでの『ウルガタ』の伝統を拒否して聖書を原典より翻訳し,民衆にも理解できる生き生きとしたドイツ語聖書の作成を試みた。翻訳はルターが教会から破門され,ザクセンのフリードリヒ賢侯の保護を受けてヴァルトブルク城に匿われたときにはじめられ,新約はエラスムスの校訂したギリシア語本文第2版(1519)を底本にして1522年2月に完成,同9月に出版(このために『9月聖書』とも呼ばれる)。旧約は多くの協力者とともに10年ほどかかってヘブル語原典より翻訳して1534年に出版した。ルターのドイツ語聖書の貢献ははかり知れないもので,その神学的意義のみならず,各方言に分かれていた当時のドイツ語を統一へと導いた点でも重要である。ルター訳は今日でもドイツ=プロテスタント教会によって多少の修正を加えて用いられている。
【欽定訳以前の英訳聖書】『欽定訳聖書』ができる以前にも,英訳聖書はいくつも存在していた。宗教改革前にはオックスフォード大学のジョン=ウィクリフ(1330ごろ〜84)が当時の腐敗した教会を本来の姿に戻し,それまでの高価で一般の手には届かなかった聖書を普及させる目的で,『ウルガタ』より重訳した最初の英訳聖書に着手した。新約は彼の手によるものであるが(1380完成),旧約は彼の監修のもとに弟子のニコラスがその大部分を訳したと考えられる(1382)。宗教改革後にはウィリアム=ティンダル(1483ごろ〜1536)はエラスムスのギリシア語新約聖書を用い,ルターのドイツ語訳聖書を参照しながらイギリスではじめて原典にもとづく聖書の翻訳を行った。当時の政府が反ルター的姿勢をとっており,聖書の翻訳やその出版を厳しく禁じていたゆえに,彼はヨーロッパ各地を転々としながら非常な熱意をもって翻訳をつづけ,新約を1526年にヴォルムスで出版した。旧約は残念ながら1530年に〈モーセ五書〉,翌年にヨナ書を訳出するにとどまった。彼は1536年に異端として火刑に処せられたが,彼の明快で適切な訳はのちの『欽定訳』に大きく反映されている。その後の印刷技術の発展や聖書研究に対する関心の高まりにつれて,16世紀から17世紀の初めにかけて次々に多数の聖書の翻訳が出された。1535年の『カヴァディール訳』,1539年のクランマーの『大聖書』,1560年の『ジュネーヴ聖書』,1568年の『主教訳』などがある。
【欽定訳聖書】『欽定訳聖書』は英国王に即位したジェームズ1世がピューリタンによる請願を受けて1604年にハンプトン宮殿会議を召集したさいに,ピューリタン代表のジョン=レイノルズの進言を受けて新しい訳を作ることに決定し,54名の優秀な学者を選定して翻訳にあたらせたことによる(そこでアメリカでは『ジェームズ王聖書』と呼んでいる)。当時は各種の英訳聖書が氾濫しており,標準とすべき決定訳が求められたのである。翻訳は『主教訳』をもとにして原典の許す限りは改訂をひかえ,それまでの『ティンダル訳』『カヴァディール訳』なども参照し,『欽定訳』は英訳聖書の歴史の蓄積のうえに作成された。1607年よりウェストミンスター・オックスフォード・ケンブリッジを中心に新旧各2班ずつ6班に分かれて翻訳が開始され,3年ほどで完了,その後改訂が加えられ,1611年に印刷出版された。翻訳にさいしては機械的な直訳を避けて簡潔が尊ばれ,文体の優雅さや豊かなイメージ性が生かされ,またヘブル語的表現が用いられることによって具象性に富んだ比喩的表現がみられ,不滅の価値を有する名訳として仕上げられて,文学的にも高く評価されている。
【改訂訳聖書】『欽定訳』以後,アレクサンドリア写本・ヴァチカン写本・シナイ写本などの重要な写本の発見によって聖書文献学は飛躍的な進歩を遂げ,19世紀後半には『欽定訳』改訂の要求が高まった。これを受けて1870年5月にカンタベリー大主教区会議は改訳を決定し,委員会が組織されたが,このなかには英国教会以外のメンバーも何人か加えられ,翌年にはアメリカの聖職者の協力も得て,優れた学者を集結した超教派的事業となった。翻訳の方針は改訂箇所をできる限り少なくし,改訳のさいにも表現を『欽定訳』やそれ以前の用語に限ること,また本文の変更は3分の2の同意が必要であり,少数の委員にしか支持されない変更は欄外注に入れるという非常に厳しい制限を有していた。さらに厳しい制約として,同じヘブル語とギリシア語の単語ないし表現にはできうる限り同じ英語を用いるという原則が採用された。これによって英訳を通じて原典に近づくことができるようになったが,画一的で単調になったとの批判も多かった。また詩の部分が散文とは区別して印刷され,また節ごとではなく意味上の単位で改行されるようになった。新約は1881年,旧約は1885年に完成された。『改訂訳』は学問的には多くの優れた改訂がなされているにもかかわらず,『欽定訳』の格調高い響きに親しんでいた一般人には歓迎されずに終わった。なおこの委員会に加わったアメリカのメンバーが1901年に独自の『アメリカ標準訳』を出した。このなかでは『改訂訳』の古風な表現がかなり現代化されている。
【改訂標準訳聖書】『アメリカ標準訳』の改訂版で,『ティンダル訳』から『欽定訳』までの伝統に立ち,また死海写本やチェスター・ビーティ・パピルス発見による文献学的成果を取り入れていっそう正確さを期した。新約は1946年,旧約は1952年に出版された。『改訂標準訳』はアメリカのみならず,広くイギリスや英語を話す地域で用いられている。
【エルサレム聖書】現代用いられている数多くの現代語訳のなかでもとくに名訳とされているフランス語訳聖書で,1948〜54年にイェルサレムのドミニコ会聖書学院で訳された。これは1966年に英訳・独訳された。
〔参考文献〕木田献一・山内真・土岐健治編『聖書の世界・総解説』1984,自由国民社
早乙女忠編『英語の聖書』1982,冨山房
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