●星座 せいざ
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【星座とは】恒星,つまり太陽と同じように自ら光と熱を放射して光っており,しかもおたがいの位置を動くことなく天球面に存在している天体が,ある形をつくって集まっているものを星座という。英語はコンステレーションというが,コンは物が集合している意味の接頭語,ステラがラテン語の「星」であり,ションは状態を表す。すなわち「星が集まっている状態」を意味している。これを「星座」と日本語で翻訳したのは,じつに名訳である。日本で星座ということばが使用されたのは,明治に入ってからで,それ以前は中国から伝わった「星宿」(文字どおり「星の宿る場所」)が用いられていた。星座ということばが登場するのは,1878年(明治11)に刊行された『星座略解−−航海必要』(原著者不詳,鈴木十一郎訳)という書物のタイトルで,おそらく鈴木という人が外国の書物を船乗りのために訳したさいに「星座」を考案したのではないかと思われるが,詳細についてはまだ検討の余地がある。【星座の起源】誰がいつ,星座を考案したかといった時期や個人を特定するのは不可能である。ヨーロッパまたは中近東で各個独自に考案されたものが,いつのまにか整理され統括されたものと考えるべきだ。現在知られている最も古い星の図は,北ヨーロッパ,原始スカンディナヴィア半島の星座で発見された約1万年前と推定される洞穴遺跡の壁画で,季節を知る目印しとしてカシオペア・北斗七星・オリオンらしい点描が認められている。人類は,時間の経過・方角の目標・四季の移り変わりといった農耕生活に必要なものとして天の図を作製したものである。星座のもう少しまとまった姿は,前3000年ごろのメソポタミア地方(今のイラク,チグリス川とユーフラテス川にはさまれた三角洲)の星座の出土品に発見される。土地の区画整理,境界を定める石標として用いられたと思われるクドウル(境界石柱)の表面に今日の黄道十二宮の原型と見られる牛・羊・水瓶・魚・さそりなどの図が見られる。黄道十二宮が考案されていたということは,当時の人々が太陽運行を観察しており,暦日の知識があったことを物語ってくれる。
もっとまとまった星座としては,古代エジプトの星座でつくられたものがある。1798年,ナポレオンの軍勢がエジプト遠征を行ったとき,エジプトのテーベ市郊外,デンデーラで神殿の遺跡の天井にみごとな全天星座が描かれていたのを発見した。天井は砂岩の一枚板で,直径13.9mの円のなかに全天星座が浮彫で描かれており,天の北極付近には河馬のような動物や獣の太股(北斗七星に相当する),サル・トキ・ワニなどといったエジプトらしい星座も見られる。しかし黄道十二宮は今日のものとそう変わりなく,おそらくメソポタミアで発祥した形をそのままに受けついだものと考えられる。なお神殿や天井石の建設は,前36年作と判明しているが,天文学者や考古学者の研究で,星空そのものは前700年ごろの状態を描いたと推定され,実際の星座の成立はもっと古い時代にあるだろうとされている。なお現物はその後フランスに持ち去られて,現在はルーブル美術館に所蔵されている。おそらく完全な全天星座としては世界最古の品と考えてよいだろう。
【トレミーの48星座】現在私たちが用いている星座の大半は,ギリシアで考案されたものである。たとえば前9世紀のホメロスの長編叙事詩『イリアス』『オデュッセイア』にはオリオン座,牡牛座のプレアデス・ヒアデス両星団,牛飼座のアルクトウルス,大熊座,大犬座のシリウスといった星座や星の名が現れてくる。たとえば,『オデュッセイア』の一節,オデュッセウスがトロイ戦争からの帰途,カリプソ島から船出しようとするくだりには,〈−−また,しっかりと見張った眼は,眠りに閉じることもなく,プレアデスと沈むに遅きボォーテス(牛飼座のアルクトウルス)と,世の人々に荷車と呼ばれ,たえずひと所をめぐって,オリオンの方角を見守り,これのみは大洋に浴することなきアルクトス(大熊座)とを見ながら,船出した〉またヘシオドスの農事詩『仕事と暦日』にも,農耕の季節を知る目印としての星座がいくつか謳いこまれており,このほかにも前6〜前5世紀のアグラオステネス・ヘカタイウス・エウクテモンといった詩人の作品に星座や星の知識が散見する。どうやらギリシア人のあいだには,すでに前9世紀にはかなり星座の形が考案されていたことを窺わせる。
もっと注目されるのは,ローマの雄弁家キケロの文章のなかに〈ミレトスのターレス(前604?〜前546)はうつろでない天球儀をつくり,のちにクニドスのエウドクソス(前409〜前356)がその表面に星座を描いた〉と記されているという。エウドクソスはさらに天文書を著し,そのなかに全天の星座の解説を述べているといわれるが,この著作が現存していないので内容は正確にわかっていない。しかし,エウドクソスの書にもとづいてつくったといわれる天文詩がある。アラトス(前315〜前240)は天文詩人として活躍し,前207年に『ファイノメナ』(“星空”の意)と題する長詩をつくり,このなかに今日使用されているほとんどの星座44個が謳いこまれている。その一部を引用すると,〈極をとりまきて,二匹のクマ丸くめぐる。時にそれは車とも呼ばる。クマはおのおのその頭を逆立てて,相手の腰のあたりに向け,背と背をむかい合わせて,肩もたがいに逆向きにあり……〉といった具合に,かなり具体的に星座の形や配列を描写し,しかも簡単な星占いや神話伝説の知識なども記述している。ただ惜しいことにアラトスは天文学者ではなかったので,多少の誤りもあり,そこで後代のヒッパルコス(前190〜前125)は,エウドクソスとアラトスの星座に関する注解書を著して,これには46個の星座を記載したという。なおヒッパルコスは,1,080個の星表を作製したときには,それらの星々を49個の星座に割りあてたといわれる。こうしてギリシア星座の基礎ができあがったのであった。
ギリシア星座を完全なものに整理した功労者は,アレキサンドリアのプトレメウス(97?〜175ごろ)である。彼は大著『メガレ=シンタキシス』のなかにl,022個の恒星表を記載し,ヒッパルコスの著書を参考として48個の星座を記述している。48星座とは,牡羊・牡牛・双子・かに・獅子・乙女・天秤・さそり・射手・山羊・水瓶・魚(以上黄道上の12座),小熊・大熊・龍・ヘルクレス・冠・蛇使い・蛇・ケフェウス・カシオペア・アンドロメダ・ペガサス・ペルセウス・琴・白鳥・わし・海豚(いるか)・馭者・牛飼・小馬・三角・矢(以上北天の21座),大犬・小犬・うさぎ・アルゴ・くじら・エリダヌス・南魚(みなみのうお)・祭壇・ケンタウルス・狼・海蛇・コップ・烏(からす)・オリオン・南冠(以上南天の15座)となっている。現在,私たちのような北半球中緯度に居住している人々に,ごく親しい星座はすべてこのなかに含まれている。しかも想像力豊かなギリシア神話がほとんどの星座に付け加えられて,夜空はみごと一大神話絵巻に飾りたてられたのであった。この48星座をいわゆる“トレミー星座”(トレミーはプトレメウスの英語読み)と称するのである。
【新しい星座づくり−−バイヤーからラカイユまで】プトレメウス以後,1,400年あまりにわたって,ヨーロッパでは星座に関して変化はまったく見られなかった。かろうじてアラビアの星座へ移入された星座を基に,アラビア式の星図がいくつかつくられ現在まで伝わっているものがある。たとえば,10世紀につくられたア=ズーフィ(903〜986)の星図や,1437年,サマルカンドの大守で天文学者でもあったウルグ=ベグ(1394〜1449)の星図などが残っているが,星座の形はすべてギリシア星座を基本としたもので,ただ人物の服装や乗物の姿などがアラビア風になっており,裸の女性や人物は一つもなく,オリオンはターバンを巻いており,龍座は明らかに中国風の龍の姿に描かれているのがおもしろい。しかし,アラビア独自の星座を新設した様子はまったく見られない。16世紀末ごろになると,ようやくルネサンスの星座の息吹きとともに,ヨーロッパでも星座図が作製されるようになり,現存するものとして,アルブレヒト=デューラー(ドイツ)の描いた星図(1515),ピーター=アピアヌス(ドイツ)星図(1536),ピッコロミニ(イタリア)星図(1540)などが有名である。星座を新設した最初の人は,デンマークの大天文学者ティコ=ブラエ(1546〜1601)で,技術者ウィレム=ブラウに命じて,直径1.8mもある大天球儀をつくらせ,その表面に描いた星座のなかに,かみのけ座を加えたものである。じつは,この星座はヒッパルコスがすでに言及しているし,アピアヌス星図には名前だけが記入されているので,ティコは復活独立させただけという説もある。
1603年,ドイツのアマチュア天文家ヨハン=バイヤー(1572〜1625)は,『ウラノメトリア』と題する星図帳を刊行したが,このなかにバイヤーは南天の12星座を新たに付け加えている。当時は大航海時代以後の星座華やかなりしころで,ヨーロッパから南方へと新天地を求めた冒険家たちが,南半球の空に見馴れない星々をみつけていたのである。12の星座とは,風鳥・カメレオン・かじき・鶴・水蛇・インディアン・孔雀・ほうおう・南三角・巨嘴鳥・飛魚・みつばち(のちに「はい」に改訂)である。名前を見て気づくのは,当時南方から持ち帰られたり,みつけられたりした珍しい小動物の名前がほとんどであった。南十字星も当然注目されていて,バイヤーの星図にもちゃんと十字架の形が描かれているが,星座として独立させたのは,もっと後のことである(プトレメウスのころは,南十字星はケンタウルス座の後足になっていた)。
1624年,ドイツのヤコブス=バルチウス(1600?〜33)が4個の新星座を提案している。きりん・一角獣・鳩,そして南十字であるが,これには異説があって,バルチウスは提案しただけで,実際に星図に入れたのは,1679年,フランスのオーギュスタン=ロワイエという人物だという説もある。ロワイエは,鳩座と南十字座を新設したのだという人もあり,このあたりはやや漠然としていてはっきりしない。ともかく南十字星が星座として独立したのはロワイエ星図からである。これにつづいて1690年,ポーランドのヨハン=ヘベリウス(1611〜87)が大判の星図帳を刊行し,彼の死後に出版されたが,このなかには北天の空隙に,小狐・小獅子・楯・とかげ・山猫・六分儀・猟犬の7星座を新設して今日まで残っている。いずれもあまりはっきり目に止まるような大星座ではない。
1763年には,フランスのニコラ=ルイ=ド=ラカイユ(1713〜62)が,南半球の空の残る隙間にぎっしりと星座を新設した。画架・コンパス・顕微鏡・定規・彫刻具・彫刻室・テーブル山・時計・八分儀・望遠鏡・ポンプ・レチクル・炉,そしてアルゴ座を大きすぎるからとして四つに分け,船尾(とも)・帆・羅針盤・龍骨,以上17座。ずいぶん風変わりな星座もあってテーブル山は,南ア連邦ケープタウンの付近にそびえるテーブル状の山であるし,レチクルというのは望遠鏡のレンズ内に張られた目標を定めるための十字線である。ラカイユは新時代の記念碑のつもりで当時発明考案されていたいろいろな機械器具を星座にあてはめたのであるが,星の配列にあまり忠実でなく,形も傑作とはいえないし,いささか味気なく,おまけになんの神話伝説があるわけでもなく,当時から,不評判だった。
新しい星座もラカイユが南天を埋めて一段落した。じつはここに紹介した以外にも,17〜18世紀にかけて多くの天文学者がさまざまな新設星座を提案し,なかには強引に星座の隙間に押し込んだりしたのだが,ずいぶん奇妙な星座もある。たとえば「チャールズ王の心臓」「チャールズ王の樫の木」(1678)は天文学者ハーレーが,当時のイギリス国王に献呈した星座だったが,イギリス人以外はほとんど取り上げなかった。またラランド(フランス)は,〈“私はネコが大好きだ。何がなんでもネコ座をつくる”〉といって無理矢理ネコ座を新設したが,すぐ忘れられてしまった。こうして,星座の数はプトレメウス48,ティコ1,バイヤー11,バルチウス2,ゾワイエ2,ラカイユ17の合計88個が,混乱を防ぐために1930年の国際天文学連合の総会で採用され,これ以上増減しないことを申し合わせ,同時に星座の境界線を赤経赤緯に平行な線に改めることも決定された。こうして現在では,星座は単に天体の位置を示す区画名となり,芸術的・趣味的な味わいがまったく失われてしまったのは惜しい。
【中国の星座】中国の天文学がメソポタミア地方に発達したものと負けず劣らず古い時代に成立したことは疑いない。『書経』の?典には,四中星(しちゅうせい)が定められて季節の目安とされたことが述べられている。四中星とは,参(“さん”または“しん”,オリオン座の三つ星)・鳥(ちょう,海蛇座α)・火(か,さそり座α)・虚(きょ,水瓶座β)で,これらの星々が真南の空に位置する(正中)をもって,春夏秋冬の季節の中心と見たものである。これら四中星は,天を支える四本柱とみなされ,東西南北の方角に配置され,のちには神路を支えられ,象徴的な四神−−玄武(北)・朱鳥(または朱雀,南)・青龍(東)・白虎(西)と考えられるようになった。中国の古墳墓(日本では高松塚古墳)の玄室の壁に,しばしば四神が描かれているのは,もとを正せば四中星が淵源であると考えられる。前5世紀頃には,太陽の通り道にあたる黄道の星座28個がつくられて,黄道28宿(ヨーロッパの黄道12宮に相当する)が制定されている。28宿とは角・亢(乙女座)・テイ※注1※(天秤座)・房・心・尾(さそり座)・箕・斗(射手座)・牛・女(山羊座)・虚・危(水瓶座)・室・壁(ペガサス座)・奎・婁(アンドロメダ座)・胃(牡羊座)・昴(牡牛座プレアデス星団)・畢(牡牛座ヒアデス星団)・嘴・参(オリオン座)・井(双子座)・鬼(かに座)・柳・星・張(海蛇座)・翼(コップ座)・軫(烏座)である。
同じ時代に,石申・甘徳という二人の天文学者が協力して中国独自の全天星座をつくりあげた。この星座表は「石氏星経」と呼ばれ,星座の数は,3垣28宿277星宿,2,933個の恒星を含んでいる。すなわち全天.三つの垣で区切り,北極付近を紫微垣(しびえん)と称して,皇帝の玉座とそれを取り巻く警護の人々や,皇后女官等を配置する。北極星が天皇大帝の星を表し,后宮・太子・庶子・御女などが近くに侍り,その周囲に尚書・丞相・四輔・近衛・宰・尉などの直接警備の兵士や秘書が居並んでいる。また天床(寝室)・天厨(台所)・文書(書記室)・天倉(倉庫)など要するに宮廷の文武百官や諸施設が星座になっている。太微垣(たいびえん)は,現在の獅子・乙女・かみのけ座一帯の星座の部分で,政府の組織や配置を表している。ここには各大臣・宰相のほか五諸侯・大将・上相・大夫・公卿などがおり,周囲との出入りは城門によって区別されている。天市垣(てんしえん)は,皇帝の巡幸の区域とされており,現在のヘルクレス座・蛇使い座・わし座のあたりに該当する。ここには当時の中国を治めていた漢の帝座のほかに諸侯,砦を守る武将のほかに周囲を周・程・斉・趙・魏・呉・燕・越といった当時の諸国や勢力圏が一望の下にわかるようになっている。3垣の外にもいろいろな星座があって,さらに辺境の夷戎(いてき)の国や庶民の生活・息子・孫・曽孫・老人などというおもしろい星座も配置されている。仔細に見てゆくと興味つきないものがあるのだが,なにぶんにも馴染みの薄いかたいことばや名称が多く,日本にもこの知識が伝わったのであるが,ほとんど一般に普及することはなかったし,国際的にも通用しなかった。しかしともかくこの中国式星座は,その後まったく改訂を加えられることもなく,じつに2,000年以上もの期間にわたって中国では用いられた。やっと17世紀(明代末期)になって西洋の星座が輸入されると,たちまちとって代わられたようである。
【日本の星座】残念ながら,日本では日本星座といえるほどのものはほとんどつくられたことはない。日本で知られている最も古い星座の図は,1972年(昭和47)3月26日,奈良県明日香村で発見された高松塚古墳の玄室天井に描かれたものである。古墳の造営年代は7世紀末と推定されているが,もちろん描かれているのは,中国から輸入された28宿(確認されているのは22宿,あと6宿は保存が悪く剥落したらしい)と天の北極付近の図である。当時,日本では仏教伝来(552),翌年ごろに暦博士・天文博士等が来日しており,その指導を受けて,推古天皇12年(604)初めて暦日を用いたことが記録に残っており,このころから天文観測が行われ,628年に日本最古の天文記録(日食)が残されている(『日本書紀』22)。また,高松塚古墳と関係が深いと考えられる天武天皇(在位672〜686)は,天文学・占星学に関心が深く,675年自ら占星台を興したことが『日本書紀』に述べられている。高松塚古墳の被葬者も天武天皇にきわめて近い人物であったか,天文暦学に関係ある帰化人の一人であったのではないかと推定される。しかし,ともかく輸入品・借物の知識であったとしても,日本最古の星座図が7世紀に存在していたことを物語る貴重な天文遺跡の存在を見逃すことはできない。
時代が下って,江戸時代,元禄年間におそらく日本人としてはただ一人,日本式の星座をつくって中国星座の中に付け加えた人物がいる。徳川幕府天文方を勤めた安井春海(保井と書くこともあり,のちに渋川姓も名乗る,1637〜1715)は,それまで長く行われていた中国暦の不備を指摘し,自ら編さんした貞享暦を代わりに採用したことで名高い(1686年,貞享3)。春海は1699年(元禄12),息子の安井昔尹(せきい)とともに,それまでの中国星座のなかに独自につくり上げた星座61個305星を加え,『天文成象図』として刊行している。中国式に依って,天の北極付近に,中務・治部・神祇・式部・中将・少将・右京・左京・右馬寮・左馬寮・軍監・兵庫・大学寮・大蔵・妥女・主計・内侍・織部・刑部などを設定し,このほかにも天船の上に天帆,孤矢の隣りに箙,老人と孫のあいだに玄孫・曽孫,さらに鴻雁・萩薄・松竹などというなかなかよく考えた風流な星座もある。これが日本人がつくったものとしては唯一の公式に発表された星座である。江戸時代の星図には,いくつか春海の星座を描いたものもあるが,ほとんど一般に普及することなく忘れられてしまった。
ところで,こうした星図に描かれるような星座ではなく,日本古来の庶民たちがそれぞれの感覚で星の和名をつくって呼びならわしたものが,農村や漁村などに伝わっている。日本人の星の見方は,ギリシア人のように想像力たくましく,広い範囲を見渡したり結びつけたりしたものはほとんどないが,いかにも素朴でこじんまりとした味わいをもっている。たとえば古くからいわれている「すばる星」(10世紀の辞書『倭名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』や少し後の清少納言の『枕草子』に現れる)は,牡牛座プレアデス星団の古い和名で,原意は星が1カ所に「しばる」「むすばる」に由来している。まだ北斗七星を「ななます星」とか4個と3個の星に分けて「四三の星」(室町時代の『義経記』に現れる)などという呼称も行われていた。そのほか,江戸時代に比較的古くからいわれていた和名として“からすき星”“さかます星”(オリオン座)・“ひとつ星”“子(ね)の星”“北の星”(北極星)・“くど星”(“くど”はかまどの方言,冠座)・“ひし星”(海豚座)・“あか星”“親にない星”(さそり座アンタレス)などがある。以上の星の和名は,現在でも各地の農山漁村で土地の古老などが語り伝えているもの多少は残っている。これこそ純粋な日本の星座といってもよいだろう。星座というには,あまりに単純で小範囲にすぎないのであるが。〔参考文献〕野尻抱影『星座巡礼』1925,研究社
野尻抱影『星座神話』1933,研究社
上田穣『石氏星経の研究』1930,東洋文庫
野尻抱影『日本の星』1936,研究社
藪内清『宋代の星宿』1936,東方文化研究所
野尻抱影『星と東西文学』1940,研究社
野尻抱影編『星座』新天文文学講座巻1,1957,恒星社
『フラムスチード天球図譜』1968,恒星社
内田武志『星の方言と民俗』1973,岩崎美術社
広瀬秀雄『日本人の天文観』1972,NHK出版会
野尻抱影『日本星名辞典』1973,東京堂
原恵『星座の神話』1975,恒星社
草下英明『星空への誘い−星座と星図の本』1981,国際地学協会
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