●靖康の変 せいこうのへん
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北宋末の靖康年間(1126〜27)宋が女真族の金に前後2回侵入され,首都開封は陥落し,欽宗と上皇徽宗を初め皇族の大部分が金に連れ去られて,北宋の滅亡と南宋の成立をもたらした事件で,その経過は以下のとおりである。【宋金の対遼同盟】1004年(景徳1)にセンエン※注1※の盟が締結されてより以後,宋−遼間の平和は百余年の長きにわたって維持された。ところが12世紀の初めごろ,遠国の東北隅,松花江流域の森林地帯から女真族が勃興し,東アジアの歴史に一大変化をひきおこした。1115年(収国元)に女真族完顔部の酋長阿骨打(あくだ)が,遼を破って金国を建設した。阿骨打は国家組織の形成につとめるとともに,遼の領土を侵略し,遼東に進出した。宋の朝廷は,これを燕雲十六州を回復する好機と考え,1118年(重和1)海上から使節を金に送り,宋金の提携による遼の討滅を提案した。使節の往還2,3回ののち,宋金の軍事同盟が1120年(宣和2)に成立したが,その条件はきわめてあいまいなものであった。宋が従来遼に与えていた歳幣を金に贈与すること,金は長城を越えて河北側に侵入しないこと,などを一応の条件とした。しかし宋金両国の軍事力の優劣が新しい事態を生み,両国の関係は悪化した。
【宋金の確執と遼の滅亡】破竹の勢いの金軍は,敗走する遼軍を追撃して,たちまち西京大同府を陥落させ,さらに燕雲十六州の大半を占領する有様であった。一方,宋は自ら提案した条約に従って,燕京攻略を行わねばならなかった。しかし折あしく江南に方臘の乱がおこったため,宋の対遼出兵が遅れ,また敗残の遼軍に対して宋軍は敗北する始末であった。結局,金軍が燕京を攻略して,それを宋に返還し,その代償として多額の軍事費の賠償を要求した。宋は金軍の掠取で空城となった燕京ほか6州を取り戻したが,金との約束は履行しなかった。ついで1125年(宋宣和7・金天会3)正月,金の第2代太宗は,陰山付近で遼の回復をはかっていた天祚帝を捕え,遼朝を名実ともに滅ぼした。このとき,かねて宋が天祚帝と密かに連絡し,金の内部攪乱を計画していたことが明白になり,たび重なる宋の背信行為に金は激怒した。
【北宋の末期と金の攻撃】1125年(宣和7・天会3)10月,金の太宗は宋に対する懲罰の師をおこし,燕京と雲州の2方面から宋都開封を衝く形勢を示した。宋の風流天子徽宗は,おのれを罪する詔をだして全国に勤王の師を募るとともに,帝位を長子の欽宗にゆずり事態の収拾にあたらせた。1126年(靖康元)正月,金軍の第1回開封攻撃が開始された。欽宗は主戦論者李綱を用いて防御につとめたが,講和の気運がおこり,宋は莫大な賠償金を支払うほか,河北・山西の前線基地である三鎮を割譲することを約したので,金軍は北帰した。
【北宋の滅亡】金軍が撤退すると,急に宋政府部内に強硬論がおこり,賠償金を支払わず,領土を割譲する気配も見せず,かえって抗戦の態度を示した。金は相次ぐ宋の違反行為に激怒して,再び問罪の師をおこし,1126年11〜12月の40日間の猛攻ののち,開封を陥落させた。宋は黄河以北の割譲を条件に和を請うたが,金側では徽宗・欽宗を人質として,天文学的数字の賠償を宋に要求した。宋側にこの条件を満たす能力がないのをみて,金は城内の国庫・民家より金銀布帛を没収した。しかもその間に,金は宋王朝を廃止するという重大な決定を行い,張邦昌に傀儡国家楚を建てさせた。1127年(靖康2)3月,金軍は徽宗・欽宗を初めとして皇族・官僚・技芸者など数千人を連行して本国に帰った。ここに宋朝は一時絶えたが,同年5月に欽宗の弟の唐王が,南京応天府で即位して高宗となり,宋の王朝は再興された。これが南宋王朝であるが,なお金軍の南下がつづき,1130年代(紹興初年)はその政権が不安定であった。唐末から北方民族が発展し中国を侵略したが,靖康の変は,その典型的な一つの事件である。
〔参考文献〕外山軍治『金朝史研究』1964,同朋舎
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