●政教社 せいきょうしゃ
アジア 日本 AD1888 明治時代
明治の国粋政治文化団体の名称。1888年(明治21)に雑誌「日本人」の発行所として,三宅雪嶺・志賀重昂・宮崎道正・井上円了・加賀秀一・松下大吉・杉江輔人・菊池熊太郎・今外三郎・棚橋一郎・辰巳小次郎・島地黙雷のような同人によって成立した。【同人の性格】島地黙雷を除いて世代的社会的に共通する人が多く,非藩閥系小藩出身,世代的には1860年前後(万延1年前後)のものが多く,漢学の上に西欧的教養を身につけたものが多い(有山輝雄『雑誌「日本人」「日本及日本人」の変遷−その言論と同人』)。したがって政教社は西洋最新の学問を正式に学問した世代で官界以外に進出した人々でもあった。またそれゆえに政教社は同人たちの意見交換の場となり,「日本人」を出版するサロンともなった。その上,政教社同人の活躍した明治20年代はすでに多数のメディアが存在していたから,特定の主義主張をもつことが大切であるとともに,それを交流させ討論させることも必要不可欠なことであった。たしかに国粋保存・国粋顕彰を標榜してはいるが,保守であっても守旧固陋でないし,国粋保存は保守でない,国粋顕彰といったからといって旧物を維持することのみを目的とするものでないから,必ずしも特定のイデオロギーを主軸として成り立ったものでない。
【政教社の母体乾坤社同盟】政教社は実は1886年(明治19)ごろ,帝国大学の卒業生で英国留学・米国留学して帰国した杉浦重剛や小村寿太郎らが会って,政党屋とは別に中正主義を貫くためにつくろうとしたものであった。欧米直訳ばかりでない新聞をつくろうと企てた。そのため集まった連中は,国民論派言論人も多かった。とくに貢進生出身がほとんどを占めている。彼らは報国の志をもって洋学を学び,帰国後必ずしも志を得ない人々であった。彼らが「日本人」創刊を企てたのは,理科中心の東京英語学校グループと文科中心の帝大12期生グループを中心としてつくられた。前者英語学校グループと後者の哲学館グループとは必ずしも考え方が合ったわけでもないし肌合いも異なっていた。その点の対立はそのままいきて政教社にももちこされている。
【政教社と「日本人」】政教社は11名で結成された。当初加賀秀一・今外三郎・島地黙雷・松下大吉・辰巳小次郎・菊池熊太郎・杉江輔人・棚橋一郎・志賀重昂である。これをみても杉浦重剛・三宅雄二郎の名はみない。
その動機は当代日本に対し,日本が世界に対して宗教・教育・美術・政治・生産の制度をいかに模索するか切迫した状況下で,その最重大な問題に対し半世所得する学術をいかに適用・応用するか千載一遇のチャンスである。これを利用して,自己独自の使命を見出しつつ,各自がもつ良心に従って時勢時事を論窮する権利を発揮せんがため,同感同意したものによって「日本人」を創刊することとなったという。それゆえに国粋政治文化団体という名にふさわしい組織である。
【その後の政教社】政教社同人のほかにシンパがおり,陸羯南・千頭清臣らである。その後特別社友として三宅雪嶺が入り,政教社を拡大するにいたった。政教社は硬六社の運動と密接に連携し,対外硬運動を盛りあがらせている。しかし,そのころより同輩集団というより志賀重昂・三宅雪嶺を中心とする集団となる。政教社の社屋は神田周辺を往来し,一時は日本新聞社の楼上の一角を占めている。その後,日清戦争後において,対外的には東亜会・同文舎会と結び,しかし,自由民権論を土芥視する国権論を批判し,国権主義と自由制度とのかかわりを強く説いている。ところが日露戦後になると伝統保守の「日本」に対し,三宅以下は反対し,政教社によって古島一雄らと共に退社している。その中に長谷川万次郎(如是閑)・千葉重雄らもいる。1907年以来「日本及日本人」を出し,1923年(大正12)改組とかかわって三宅雪嶺は去り「我観」を出したが,政教社と雑誌は三井用之らに握ぎられて,しだいに日本浪漫派へ近づいていくこととなっている。
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