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●征韓論 せいかんろん

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幕末から明治初期にかけて唱導された朝鮮国への武力行使を主張した政論。

【幕末期の征韓論】幕末期に欧米列強に開国を強要されて民族的危機意識が高まると、それに対応して征韓論が発生した。吉田松陰は、西洋との通商で失った富を朝鮮・満州の土地獲得で補うべしと主張し、橋本左内は、日本独立のために満州・朝鮮などを併合しなければならないと論じた。また、勝海舟は、欧米列強に対抗するには日本・朝鮮・中国の三国が連帯協力すべきであると説いたが、もし朝鮮がロシアに侵略されれば直ちに日本の存立を危くするから、その場合には日本が先手をうって朝鮮を武力で服従させよとも論じた。これらの議論は、現実の朝鮮国との交渉に基礎づけられていない観念論であり、国内の政治的不満を外にそらす政策論の側面をも有していたから、幕末政局の激動が進むにつれてうやむやになった。

【対朝鮮国交の難航と出兵論の台頭】明治新政府が発足すると、江戸時代を通じて日朝国交の仲介を専管していた対馬藩は、その特権維持を求めて、政府と朝鮮国との交際再開を働きかけた。そこで、政府は対馬藩に朝鮮国への使節派遣を命じたが、朝鮮側は対馬藩が持参した国書の形式が前例に反するとして受理を拒否した。ここに、日朝国交問題は立ちあがりから困難な事態に直面することになった。

 この事態に政府内で敏感に反応したのは参与木戸孝允であった。木戸は、使節を派遣して朝鮮の無礼を責め、先方が謝罪しないときは武力を行使せよと強調した。木戸の立論の背後には、戊辰戦争後の政府に対する諸藩の不満を外にそらそうとするねらいがあり、同時に政府部内で大久保利通に押され気味な彼の政治的地位を好転させようとする意図があった。結局、木戸の主張は、1869年(明治2)末から1870年初にかけて、彼の出身地である長州藩に内乱(諸隊の反乱)が勃発したので、立ち消えの形となった。しかし、とにかく明治政府における征韓論の最初の首唱者は木戸であった。その後も、対朝鮮国交交渉の不調を反映して、外務省官員の佐田素一郎・柳原前光丸山作楽らが対朝鮮強硬論を主張し、政局に波紋を生じた。

西郷隆盛は征韓論者でない】このような状勢を背景にして、1873年(明治6)10月に政府が大分裂し、参議筆頭の西郷隆盛はじめ板垣退助・江藤新平・後藤象二郎副島種臣の諸参議がいっせいに辞職するという大事件(明治六年政変)がおきた。従来、この事件は“征韓論政変”と呼ばれ、征韓派の西郷隆盛らと非征韓派の大久保利通らとの対立が原因となって惹起したものとみなされてきた。しかし、このような見方は史実の裏付けがない俗説である。西郷が閣議などの公的な場で“征韓”を主張したことを示す史料は現在まで発見されていない。それどころか、西郷は、閣議において朝鮮への出兵論に反対し、平和的道義的交渉による日韓国交の正常化を力説したものである。

 西郷は、1873年10月15日付で太政大臣三条実美にあてた「始末書」において、〈公然と使節差し立てらるる〉のが至当であり、あらかじめ戦争準備をして使節を派遣するのは〈礼を失せられ候〉、そうでなくて誠心誠意の交渉によって〈是非交誼を厚く成され候御趣意貫徹いたし候様これありたく〉と明言している。この西郷の提案は閣議で満場一致で承認され、彼は志望どおり朝鮮派遣使節に任命されることが決まった。もし、西郷がそのまま朝鮮国に赴いたならば、日朝間の国交は円満にまとまり、その後のアジアの平和に大きく寄与したであろうことは疑いない。ところが、岩倉具視大久保利通の政治的陰謀によって西郷の悲願は葬られてしまった。これが明治六年政変の真相であり、征韓の是非をめぐる政争でなかったことは史実が明白に語っているのである。

 他方、征韓論は、1876年(明治9)の日朝修好条規の締結とともしだいに消滅した。

〔参考文献〕毛利敏彦『明治六年政変の研究』1978、有斐閣

毛利敏彦『明治六年政変』1979、中公新書

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