●西夏 せいか
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11,12世紀から13世紀にかけて中国北西部すなわち今日の寧夏を中心に建国し,甘粛・オルドス地方,陝西省北部を支配したチベット系タングート(党項)族の拓跋氏による国家。なお拓跋氏は通常北魏を建国した鮮卑の一氏族をいうが,同糸統というのではなく,その盛名を用いたのであろう。西夏を建てた拓跋氏が歴史に姿を現すのは唐初のことである。もと松州(四川省松潘県)辺外にいたタングート族に属し,唐の太宗のころに拓跋赤眉が北方の青海地方に強盛を誇ったタングートの王家と通婚していた。その後,唐の進出によって西域方面に変動がおきると,そのなかで分裂・移動をおこすようになった。オルドス南部の夏州によった平夏部はしだいに発展して,9世紀後半の拓跋思恭が黄巣の乱鎮圧に功を立て,僖宗より権知夏綏銀度事,李姓を賜るにいたった。西夏の王族が李姓を名乗るのは以後のことである。その後,夏州定難軍節度事を受け継いだが,9代目の李継捧のとき(983,太平興国8)にいたって,960年(建隆元)に建国されたばかりの宋に夏・銀・綏・宥4州を献じてくだった。これに反対する李継遷はオルドス地方に独立し,遼と結んで勢力を拡大し定難軍節度使西平王と称した。遼によって夏国王に封じられた李継遷は夏・銀・綏・宥・静5州を回復占有する一方で,周辺の諸族として勢力を拡大し,その子の李元昊の時代にいたって宋・遼と鼎立する大勢力となった。李元昊は中国にならって政治体制をととのえ,年号をたて州郡を置き都を興慶府(寧夏回族自治区銀川市)に定めた。1038年(天授礼1)にいたって皇帝を称して国号を大夏としたが,これを西夏と呼ぶのは宋の北西部に位置したからである。李元昊は青海西部にいた吐蕃の喃厮羅と争う一方で,宋に対しても攻勢をとり,1044年(法延祚7・宋暦慶暦4)に和約が結ばれるまで両国に戦闘状態がつづいた。和約の内容は,李元昊が宋に臣礼をとって王を称すること,宋は西夏に歳賜として毎年絹15万3,000匹,銀7万2,000両,茶3万斤を与えること,保安軍・鎮戎軍高平砦にカクジョウ※注1※を設けて互市を行うこと,などである。西夏は宋との和約によって一時安定を得たが,この背景には遼−宋間の対立もあげられる。当時の東アジア世界は遼・宋の2大国が対峙していたが,西夏は2国のなかにあって利を得ようとする傾向にあった。ここに東アジアは複雑な国際関係の出現をみたのである。宋は1081年(元豊4)に西夏の内乱に乗じて李憲を総帥に西北五路から遠征したがすべて失敗し,事態の解決に成功していない。西夏は遼・金の交替に際しても最初は遼についたものの,のちには金について宋を攻めてオルドス南部を傘下におさめ最大の領域を築くにいたった。北宋の滅亡と宋室の南遷は両国の紛争を終わらせたが,同時に金とのあいだにも友好関係を保ち,発展と安定の時期を迎えることとなった。しかし蒙古が台頭するに及んでその圧迫に苦しむようになり,襄宗李安金(1206〜11)のときには首都を囲まれ和を請うこととなり,その後は蒙古の徴発に苦しんだ。このあと蒙古の仇敵乃蛮(ナイマン)部のチルカサンブンの来投を受け入れ,蒙古の質子要求を拒み,チンギス=ハーンの来功をきたした。豪古との戦いの結果,黒水城(カラ=ホト)・粛州・甘州が陥れられ,興慶府も陥り,1227年(宝慶2)10代190年をもって滅んだ。西夏がこのように長く繁栄したのは,地理的に東西交通の要路を占めたことがあげられる。西方と宋・遼(金)とのあいだに立って中継貿易の利を得ていたのである。主要産業は牧畜で,馬・羊・ラクダを飼育し,農業は河西のオアシス地帯,興・霊諸州の黄河流域の灌漑地帯,陝西省北部などで主として漢族中心に営まれている。中国とのカクジョウ※注1※貿易も盛んで,馬・牛・羊・ラクダ・毛氈・蜜臘などを輸出する一方で,絹織物・香薬・磁器・漆器などを輸入した。文化については,仏教・儒教を基調とした西夏文化が栄えた。また,西夏文字を作成するなど独自の文化育成をめざしたものの,中国の強い文化的影響を受けており,とくに固有の文化を発展させたというにはあたらない。しかし,黒水城・敦煌などには仏教美術関係の遺蹟があって西夏文化の特性を示している。〔参考文献〕中嶋敏「西夏における政局の推移と文化」東方学報「東京」6,1936
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