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●税(イスラーム) ぜい

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 イスラーム法で税というのは,イスラーム国家に服属し,その保護を受ける非イスラーム教徒であるジンミーが,服属のしるしとして国家に納めるものをさす。

【イスラーム法の税制】イスラーム法に定める税はジンミーの納めるジズヤ(人頭税)・ハラージュ(地租)およびウシュールで,ウシュールはジンミーの職人・商人が納める年収の5%のことである。ただし,非イスラーム国家の商人が商売のためイスラーム国家に入国することは許され,この場合には入国関税として商品価格の10%が徴収され,これもウシュールと呼ばれた。またムスリム(イスラーム教徒)も征服地に土地を所有する場合にはハラージュが課せられるが,このハラージュは税ではなく,国家に納める地代とみなされる。これ以外の課税はイスラーム法ではマクス(非合法税)として禁止されるが,現実には地方君主や領主の課すさまざまな雑税があった。税はジンミーが服属のしるしとして国家に納めるものであるから,ムスリムは税は課せられないが,宗教的義務としてのザカートが課せられる。ザカートはしばしば喜捨と訳されるが,決して任意のものではなく義務的なもので,ムスリムの所有する通貨・家畜・農産物・商品(金銀と埋蔵財宝を含む)から,その一定割合を納める。その率は通貨は2.5%,家畜は種類によって0.8%から2.5%まで,農産物はとくに灌漑を必要としない場合に10%,灌漑の必要な場合に5%,商品は年収の2.5%,金は5%,銀は2.5%,埋蔵財宝は発見の際に20%とされる。農産物の10%がウシュル(10分の1)であるが,通貨および商品の2.5%もウシュルまたはウシュール(ウシュルの複数)と呼ばれる。ザカートは税ではないといえ,事実上はムスリムに課せられた財産税で,しかもその用途がムスリムの困窮者の救済のためと定められていることから,欧米の学者は多くこれを救貧税と呼ぶ。このようなイスラーム法の定めは,預言者ムハンマドの時代からアッバース朝の初期までの長い歴史的過程の所産なので,以下にその過程を跡づけてみることにする。

【ムハンマド時代】ムハンマドはメッカとメディナでは自発的な喜捨を求めることはしたが,税はけっして徴収しなかった。この自発的な喜捨を『コーラン』ではザカートといい,用語は同じザカートでも,イスラーム法のザカートとは意味が異なる。メッカ・メディナ以外の地では,啓典の民と呼ばれたユダヤ教徒・キリスト教徒を初めて服属させた627年からジズヤまたは農産物の一定割合を,イスラームに改宗したアラブ部族民からは家畜と農産物の一定割合を徴収した。啓典の民のジズヤは毎年一人あたり金貨1ディーナールの人頭税で,アラビア半島北西部の啓典の民からは,それを定額の貢納として集団単位で一括徴収した。農産物というのは事実上すべてナツメヤシで,集団によって違いはあったが,典型的なのはハイバルのユダヤ教徒から収穫の2分の1を徴収したものである。アラブ部族民の家畜は,それぞれの集団ごとに個別に徴収されたので率が一定しないが,ナツメヤシからは例外なく収穫の10分の1(ウシュル)を徴収した。ムハンマドの時代にすでに啓典の民から人頭税ジズヤを貨幣で徴収したこと,まだ土地に対する課税という観念はなく生産物に対する課税であったが,啓典の民からは収穫の2分の1,アラブのムスリムから10分の1を徴収したことが注目される。

アラブ帝国時代】ムハンマドの没後,アラブは征服によって大帝国を建設したが,征服と平行して租税の徴収も行われた。ダマスクス・ヒーラ・アレキサンドリアのように実際に戦うことなく自発的に降伏した都市では,定額の貢納が徴収された。その算定方法の具体的に伝えられるヒーラの場合,課税人口の6,000人に一人あたり銀貨14ディルハムを課し,総額8万4,000ディルハムを貢納として毎年一括徴収した。その課税方法はアラビア半島北西部のムハンマドのそれと同じで,実際の人口の増減にかかわらず,理論的には貢納は定額で永久に不変とされた。

 アラブの征服の特徴の一つに,都市・農村を問わず既在の共同体の内部秩序をできるだけ温存し,それを可能なかぎり統治の目的に利用するということがあった。このような方針から,農村での税の徴収にあたっては,ビザンティン・ササン朝時代から納税の責任者とされていた村落領主または地主を納税の責任者として,村落単位で一括徴収した。したがって,ビザンティン・ササン朝の課税方法がそのまま継承される結果となったが,それは村落ごとに人口と耕地面積とを確定し,人口に応じた人頭税額に耕地面積に応じた地租額を加えたものを当該村落全体の税額とし,それを一括徴収するものであった。アラブはここで初めて土地に対する課税を知り,これをハラージュと呼んだ。ハラージュは貨幣と現物との2本建てで徴収され,制度上は土地面積に応じて課税されたが,直接生産者である農民は実際には収獲の2分の1を現物で地主または村落の代表者に納め,政府の徴税官が村落単位で一括して受け取った。現物の一部を貨幣に換えたのは地主または村落の代表者で,穀物価格が上昇の傾向にあったことは,彼らにとって実質的な収入の増加を意味した。税は人頭税ジズヤと地租ハラージュからなっていたが,実際には村落単位の一括徴収であったので,ジズヤとハラージュとの用語上の区別はまだ確立していなかった。概していえば,この一括徴収の税を西方の旧ビザンティン領ではジズヤ,東方の旧ササン朝ではハラージュと呼んでいた。すでに征服の過程から,アラブ=ムスリムの有力者は征服地に多くのダイア(私領地)・カティーア(分与地)を所有していた。それはカリフや総督からの授与,住民からの購入または実力による占拠など成立の事情はさまざまであったが,すべてアラブ=ムスリムの私有地とみなされた。ムスリムからはウシュル(収穫の10分の1)を徴収するのがムハンマドの先例であったが,アラブが征服者・支配者として特権的な地位にあったアラブ帝国時代には,一部の例外を除き,アラブ=ムスリムの有力者の私有地からウシュルを徴収するのは,実際問題としてかなり困難であった。だが政府はウシュル徴収の努力をつづけ,有力者の私有地でない場合には,ある程度までウシュルが徴収されていた。

【イスラーム税制の確立】征服地の住民のイスラームヘの改宗は最初は都市で,やがて農村でもしだいに進んだ。このようなジンミーからの改宗者をマワーリーと呼ぶが,農村でのマワーリーの増加は租税の徴収に関して深刻な事態をひきおこした。それはマワーリーの地主・農村がアラブ=ムスリムと同じく,ウシュルを支払う権利を主張したからである。このことは,収穫の2分の1のハラージュを10分の1のウシュルに変えることであったので,国庫収入のいちじるしい低下を意味し,政府当局者としてはけっして認めることができなかった。しかし7世紀の末ごろからイスラームの神学・法学の研究が進み,アラブであるとマワーリーであるとを問わず,信者の平等を求める声もしだいに高くなってきた。このような事情を背景に打ち出されたのがウマル2世の租税政策で,彼はマワーリーもムスリムである以上,いっさいの租税が免除されるが,征服者の土地はムスリム共同体の不可分共有財産であるので,征服地に土地を所有・保有する場合には従来と同じ税を支払わなければならないとしたうえで,ヒジュラ紀元100年(718/719)を期限に,それ以後,征服地における土地の売買を永久に禁止した。このウマル2世の政策は,征服地の土地をムスリム共同体の不可分共有財産とする新しい法理論にもとづき,アラブ=ムスリムとマワリーとの平等の原則を初めて政治に取り入れた点で画期的なものであった。そしてウマル2世は,ムスリムにザカート支払いの義務のあることを繰り返し述べているので,彼の租税政策はムスリムかジンミーかの違いによって租税負担が異なるという税制上の属人主義に立脚するものであった。

 このように画期的意義を持ったにもかかわらず,ウマル2世の新しい政策は,土地売買の永久的禁止という実行不可能な禁令を含み,マワーリーは土地を棄てて都市居住者にならないかぎり,従来と同じ重税を課せられつづけるものであったために,実際にはいたずらに地方における租税徴収の業務を混乱させるだけであった。しかし彼の打ち出したムスリムの平則は,いまや誰にも阻止することのできない時代の潮流となり,彼の没後,各州の税務担当者によってしだいに実施された方法は,ムスリムからはジズヤを免除するが,征服地に土地を所有する場合にはハラージュを徴収する。ただし,征服後まもない時期にアラブ=ムスリムの私有地となり,その後それが一貫して継続している土地からはウシュルを支払うだけでよい,というものであった。この方法はヒシャームの治世に始まり,ウマイヤ朝の末期までにはすべての州で行われ,アッバース朝の成立とともに統一的税制として帝国全体に施行され,それがそのままイスラーム法に定める租税制度となった。この制度の根底にあったのは,国家的土地所有の観念と税法上の属地主義であった。国家的土地所有の観念は,ウマル2世のいうムスリム共同体の不可分共有財産を,管理機構を備えた国家の所有地といい換えたものにすぎない。このことの論理的帰結は,征服地に土地を所有するムスリムは国家という地主の土地を小作している小作人と同じであるから,国家に対し小作料としてのハラージュを支払わなければならないとするもので,用語は同じハラージュであるが,ジンミーの支払うハラージュで,ムスリムの支払うハラージュは小作料だということになる。ウマル2世の政策では,ハラージュを支払う土地とウシュルを支払う土地との区別が明らかでなく,土地売買の禁止によって,特権的アラブ=ムスリムの私有地の拡大を防止しなければならなかった。だが,土地そのものをハラージュ地とウシュル地とに分ければ,所有地が変わっても支払う税は変わらない。これが税法上の属地主義である。以上のような過程をへて,イスラーム法の税制は9世紀の末ごろまでに成立し,時代と地域によって多少の運用の違いはあったものの,その後,一貫してイスラーム国家の税制となった。