●世阿弥 ぜあみ
アジア 日本 AD1363 南北朝時代
1363〜?(貞治2〜?)室町時代の能(当時は猿楽といった)役者・能作者。優れた能楽論書も残している。父観阿弥とともに能の大成者。幼名鬼夜叉・藤若,通称観世三郎,実名元清,法名至翁善芳。擬法名的芸名として世阿弥陀仏と称したが,その略称が世阿弥または世阿である。【履歴】世阿弥は波乱万丈の生涯を送った人である。少年時代洛東今熊野の能で将軍足利義満に見出された。義満のこの美少年に対する寵愛が激しかったので,諸大名も義満の機嫌をとるために競って世阿弥に贈物をした。また二条摂政といわれた二条良基もこの名童に感激して藤若の名を与えた。良基や義満のような貴人およびその周辺との交渉から得られた貴族文化が,のちの世阿弥の芸術創造の上に与えた影響は大きい。1384年(至徳1)5月19日,観阿弥が駿河で没した。22歳の世阿弥は2代目観世大夫に就任(6月1日か。),父の遺業を受け継ぎ,能をより洗練された芸術にするため質的向上をはかった。1394年(応永1)義満南都春日社参の折の一乗院における猿楽,1399年(応永6)4月の三宝院での義満臨場の猿楽,同年5月の盛大な勧進猿楽などがあって,全生涯における隆盛期を過ごした。この時期に書き進めていた『風姿花伝』には形成期の能の姿が進行形のように書きとどめられている。1408年(応永15)義満は没し,義持の天下となった。鑑賞眼の高い義持は田楽の増阿弥の冷えに冷えた芸を愛好した。世阿弥はこれを目標にして精進したので,冷えたる能・無文の能への深化をみ,高度な論書も残すことになった。世阿弥は補巌寺(ふがんじ)の竹窓智厳(ちくそうちごん)のもとに参禅し,出家した。嫡男元雅が観世大夫になったが,出家しても舞台に立ち,後進の教育にも熱心であった。『花鏡』『至花道』『三道』などはこの出家前後の成立であり,論書の大部分は義持時代に書かれている。また東福寺住持で老後は不二庵を構えた岐陽方秀(きようほうしゅう)にも接し,つねに座をともにして談笑していたという。これらの名僧碩学の影響は論書にみられる。1428年(応永35)義持没し,義教(よしのり)の時代になった。義教は芸風上からも世阿弥より甥の音阿弥を好み,専制的な権威の確立の手段としても世阿弥父子の有する地位を剥奪して,次々と恩恵を音阿弥に与えた。義教の意志による音阿弥への秘伝相伝を拒んだためか,72歳の世阿弥は佐渡へ流された。74歳の1436年(永享8)まで在島したことはわかるが,その後いつ許されて帰洛したか否か,不明。補巌寺に忌日8月8日が記録されているが,一説に81歳没の伝承あるも没年は明らかでない。1984年補巌寺(奈良県田原本(たわらもと)町味間(あじま))に世阿弥の顕彰碑が建立された。
【業績】世阿弥の業績の第1は,観世座の大夫として,俳優として,また演出家として,父が固めた基礎の上にほかの名人の要素も加えて,幽玄美を理想とした歌舞中心の美しい能を創造し,現代にも生きつづける芸術にまで磨き上げたことで,父とともに大成者として不滅の名を残した。この功績は能作と能楽論書によって証明される。世阿弥は多くの能作をし,古い能の改作もした。現在,ほぼ確実に世阿弥の件品とみられるものは(改作も含めて)約70曲。有名な『高砂』『蟻通』『敦盛』『清経』『忠度』『井筒』『檜壇』『砧』『当麻』『融』などはその代表作である。歌舞幽玄能を確立した夢幻能形態の完成こそ,劇作家としての世阿弥の最大の業績である。また優れた能楽論書も残していて,現在確認できるものを成立年代順(推測によるものもある)にあげると,『風姿花伝』『能序破急事』『音曲声出口伝』『至花道』『人形』『三道』『花鏡』『曲附』『風曲集』『遊楽習道風見』『五位』『九位』『六義』『拾玉得花』『五音』『五音曲』『習道書』『世子六十以後申楽談儀』『却来華』の19部。このほかの『夢跡一紙』と『金島書』を加えて“伝書21部”と数える数え方もある。世阿弥の論書は能以外の芸術や人生にもあてはまる面が多く,今日までは文学・演劇学はもちろん哲学・民族学・教育学・心理学などの分野でも注目され,広い読者層をもっている。
〔参考文献〕香西精『世阿弥新考』1962,わんや書店
香西精『続世阿弥新考』1970,わんや書店
表章他『世阿弥禅竹』日本思想大系 1974,岩波書店
西一祥『世阿弥研究』1976,桜楓社
西一祥『世阿弥論』1980,桜楓社