●諏訪信仰 すわしんこう
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古来,諏訪大社には幣殿拝殿片拝殿などの設備はあるが本殿としての建築がなく,奈良県の大神神社とともに古代の祭祀の形態を伝えている。古くは,祭神の子孫と称する諏訪一族が,上社を中心として神氏(じんし)と称しその正統を大祝(おおほうり)と号して諏訪明神の御正躰としてつねに祭祀を受け,また毎年1回,湛神事(たたえしんじ)に外県介(とあがたのすけ)など6人の神使が14人の村方神主とともに領内巡幸の儀式が行われていた。これは顕著な人神(ひとがみ)の代表的なもので,「人間にして神なる大祝」を中心として神長官以下5官そのほかの職制を整えて,きわめて複雑なる神人組織を形成して諏訪信仰の中核となっていた。【風水鎮護としての諏訪信仰】諏訪神が風水鎮護の神威を顕した最も古い文献は『日本書紀』(691)持統天皇5年8月,〈使を遣わして竜田風神,須波水内神を祀り晴雨の祈願を込められた〉とあり,また『諏訪大明神画詞』(1356)に神功皇后三韓征討のみぎり,諏訪・住吉二神を船上に神座を設けて奉斎し玄海灘の風波を鎮められたことが記されている。また『伊勢風土記』によれば伊勢津彦命が天神に国土を献じたのちに,一夜大風をおこして信濃国に退去した記事をのせて,諏訪の神を風の神である伊勢津彦命であるとしている。また平安末期の歌人藤原清輔が『袋草紙』に,源俊頼の「信濃なる伎蘇路の桜咲きにけり風の祝にすきまあらすな」の歌をあげ〈是ハ信濃国ハ極テ風早キ所也仍,スハノ明神ノ社ニ風ノ祝ト云フ物ヲ置キテ是チ春ノ始メニ深物ニ籠居テ祝シテ百日ノ間尊重スルナリ然者其年凡ソ風雨閑ニシテ為ニ農業吉也〉と説いている。古来,諏訪神社年内75度の神事のうち,きわめて重要なる御射山御狩神事(旧暦7月27日)も本来の狩猟信仰の外に,その背後には台風除けの風鎮めの信仰の面影をしのばせており,現在全国の御分社のほとんどがこの日を諏訪祭あるいは風祭りと称してその社の例大祭が行われている。
【軍神としての諏訪信仰】桓武天皇の時代,坂上田村麻呂が,勅命により征夷大将軍として東征のみぎり諏訪明神を東関第一の軍神と仰ぎ心中に祈願を込めて,神助により大任を果たしたことが諏訪大明神画詞にみえる。平安朝以来,諏訪を中心とする信濃武士が朝廷側近の武士として登用され,鎌倉時代以降は源頼朝初め源氏一族・北条氏一門・武田信玄その他の武将が武門の守護神として崇敬した。徳川幕府も上社に1,000石,下社に500石を寄進しており,こうした背景のもとに諏訪神の神威があまねく武士階級に広められていった。
【狩猟神としての諏訪信仰】自然環境のなかから発生した狩猟信仰が諏訪神の神威と結びつき,ことに中世以降,諏訪上社年内4度の御狩神事とくに五月会,御射山御狩神事が鎌倉幕府の庇護により神祭りとしての狩猟行事が尚武の的となり,政権を掌握した武士階級によって諏訪神の狩猟的な神格が広く全国に印象づけられた。またこの反面,仏教が広く民間に浸透するようになり殺生禁断の思想が広まるなかで,とくに諏訪神社だけが御鷹狩あるいは御射山の御狩が許されていたので,諏訪神社の社頭からとくに「鹿食免」(かじきめん)の護符や「鹿食箸」が出され,毎年諏訪神社の御シ※注1※たちによって広く全国に配布されたので,諏訪神の狩猟神的信仰が広く庶民のあいだに浸透して行った。
【竜神としての諏訪信仰】諏訪大明神の御正体が竜神あるいは蛇神であるという信仰は,鎌倉時代以降顕著で,『諏訪大明神画詞』『太平記』あるいは『北條九代記』などに記されている。ことにこの信仰の弘布に大きな役割を果たしているのは『安居院神道集』所載の『諏訪縁起』で,甲賀三郎諏訪神鎮座の説話は当時修験派の諏訪神人たちの唱導活動によって広く全国各地に弘布されて行った。遠い古代から朝野の篤い信仰をあつめていた諏訪神の神威は,長い歴史の変遷のなかにあって武士の社会には軍神信仰として伝えられ,一般庶民のあいだでは生活の守護神として−水神風神・狩猟神あるいは海上守護神・航海安全の守護神−として信仰され,さらには修験の唱導説話などによって竜神信仰と,それぞれの信仰形態を伝えて現在に引き継がれ,全国津々浦々に鎮座する一万有余の分社となっている。
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