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●スルタン

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 中世以降,スンナ派のイスラーム諸朝の君主が用いた称号。コーラン・ハディース(ムハンマドの言行の伝承)の用語法は“超自然的な呪術的権威”とか,“政治的権力”とかの抽象的な意味を表す。スルタンという語が具体的な君主の称号として使われるようになった背景には,アッバース朝カリフによって統治されていたイスラーム世界が9世紀以降,政治的に分裂し始めたことがあげられる。辺境地域で実力によって地方的な軍事政権を樹てた者たちのなかにはスルタンの称号を名のるものが出てきた。しかし,スルタンの称号を正式に認められるのは,セルジューク朝(1038〜1194)のトゥグリル=ベク(在位1038〜1063)が最初である。彼は1055年,バグダードに入城し,アッバース朝のカリフより“スルタン=ルクン=アッダウラ”(“国家の支柱たるスルタン”の意)という称号を授けられた。これ以降,諸王朝の君主はカリフによってスルタン号を授与されるという形式を踏襲していくことになる。 預言者ムハンマドによってつくられた信仰共同体(ウンマ)はムハンマド亡き後,ウマイヤ朝・アッバース朝などの外皮をまといながら,理想的な宗教理念から離れて聖俗の両権力を委任されたカリフによって支配されていくことを原則としていた。しかし,現実の政治状況はアッバース朝によって支配されるはずのイスラーム世界の分裂であり,実際に世俗権力を有する者をスルタンとして認め,聖俗二つの権力を分離していかなければならなかった。このような状況のなかからスルタンの称号が出てくるが,後世のイスラームの法学者は,スルタンの政治的な地位を正当化する理論をうちたてることに腐心した。10世紀の法学者マーワルディー(974〜1058)は,スルタンはカリフから行政・軍事などの統治権力を委任された者と考え,また,セルジューク朝の宰相ニザーム=アルムルク(1018〜1092)は,イラン固有の王権神授観に影響されて,スルタンは神によって直接選ばれたものと説いた。さらに同時代の偉大な神学者ガザーリー(1858〜1111)は,「宗教(ディーン)と王権(ムルク)は双生児である」といって,スルタン権力の絶対性を伝統的なイスラーム政治思想と調和させることに努めた。スルタンはあくまでもイスラーム法とその正義に則り,カリフが委任した政治権力を行使することが求められていたが,1258年,モンゴル系遊牧民のバグダード来襲とアッバース朝の滅亡とによって,カリフ制が事実上崩壊し,これ以降スルタン制も変化することになる。

 カリフ制がなくなっても,スルタンという称号はイスラーム世界各地の君主によって使われた。オスマン朝(1299〜1922)の支配者もこの称号を採用した。最初にこれを使ったのはバヤジット1世(在位1388〜1402)といわれ,彼の治世中にアナトリア(小アジア)とバルカンの征服がほぼ完了した。その後,オスマン朝は1453年,コンスタンティノープル(イスタンブル)を征服してビザンツ帝国を滅亡させ,1517年にはシリア・エジプトを征服,さらにメッカ・メディナの聖地保護権も手に入れてイスラーム世界の大半を支配する広大な帝国を建設した。

 オスマン朝のスルタンは支配の完成に応じて,その地位の権威づけを痛感するようになり,1538年,スレイマン1世はエジプト・シリアのマムルーク朝征服の際に捕えて連れてきたカリフの子孫と称するムタワッキルからカリフの地位を譲ってもらうという手続きをふんだ。ここに,オスマン朝の支配者はスルタンであるとともにカリフでもあるという法的地位を獲得することになった。スルタン=カリフ制オスマン朝において1922年に廃止されるまで存続するが,ふだんオスマン朝の支配者はイラン起源のパーディシャー(帝王の意)を称することの方が多かった。スルタンの称号は,オスマン朝の支配者以外に地方政権の支配者・王族・有力な軍人・政治家・高名な学者・スーフィー(神秘主義者)によっても使われた。

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